2015/08/2 主日礼拝 メッセージ:「消えない喜びはどこから」
御ことば(ルカによる福音書10章20節)
だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。
メッセージ:「消えない喜びはどこから」 原田昌樹牧師
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私にとって「あなたがたの中で、貧しいために見下されている人は、そのことを喜びなさい。主が高く評価してくださるからです。」という文言を受け入れるのは難しいことではありませんでした。けれども「富んでいる人は低くされることを喜びなさい。」というのは、長い間どういう意味なのかよくわかりませんでした。しかしある時、「世で高くされている、価値があるとされているものであっても儚く過ぎ去るものであること、この世のどんなに素晴らしいものを手にし、味わってもそんなものはちっぽけなものに過ぎないと思えるほどに、更に圧倒的な良きものが主にあって存在することを知ることができるということを喜べ」と語っているのだと思ったのです。
あなたは今、試練を受けていますか?それはどんな試練ですか?その試練はあなたのどのような部分を成長させてくれると思いますか?あなたはその試練の中で、どんな思いの戦いをしているでしょうか?
ある人がこんな話をしていました。この人には仕事上の上司がいます。この上司は志を持った良き人なのですが、しばしば本人が語るビジョンとチーム内における働き方や発言に混乱が生じるとのことでした。このような上司を持つ人はどのように行動したら良いのでしょうか。一時、この重圧が苦しくてこのチームで動くことに不満を抱いたそうです。また「思い知ればいい」などとも思ったそうです。しかしこの人はそれらの思いが自分の心や行動を、またやる気を縛り付けてしまうことに気づき、手放すことによって、その上司の元にいることは変わらずとも、自由を得ました。
[ガラテヤ人への手紙 6:1,2]にこう書いてあります。「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」そしてそのすぐ前の5:26には「自惚れて、互いに挑みあったり、妬みあったりしないようにしましょう」とあります。
私たちは、柔和な心で、謙遜な心で、愛をもって励まし支え合うことができるのだと聖書は語っているのではないでしょうか。「この人を導いてあげなくては」という思いからコントロールしようという誘惑に陥らないように注意する必要がある場合があるかも知れませんし、「それは間違っている!こちらが正しい!」と敵愾心や反発心、反抗心に囚われやすくなることに注意する必要があるかも知れません。これらの誘惑に打ち勝ち、主の御心である「愛」を選び従う時、私たちは「いのちの冠」を得るのだと書いてあります。
全ての律法は私たちが愛のうちを歩むための手引きなのではないでしょうか。これに従うことは愛の証明になり、愛が全うされていくのを目の当たりにすることができるのではないでしょうか。
忍耐の中には、手を替え品を替え、相手が受け取れる形がどんなものであるのか心を砕くことも含まれるのだと受け取ることができます。そのようにして私たちは練られ、強められていくのです。そんな私たちに約束されているのが「いのちの冠」なのです。これは草で編んだものでも、金属のようなものでもありません。この世のどんな素晴らしい素材もやがて朽ちてしまいますが、この冠は永遠に朽ちることなく輝く神からの栄誉であり、私たちが何者であるかを示すものであり、任命証であるのです。救いのカブトとも言えるでしょう。これは私たちを守ってくれますし、何をかしらに据えているのかを表すものでもあります。
いくつか聖書の言葉をご紹介します。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」[ヨハネの福音書 12:24,25,26]」
「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。[ローマ人への手紙 8:32]」
「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。[ヨハネの福音書 13:15]」
「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」[マルコの福音書 10:44,45]」
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
[エペソ人への手紙 2:10]
聖書に見られる「従う」や「仕える」というのは私たちが思い描く奴隷のように人格や人権を無視されるようなものではなく、私たちを私たち以上によく知る方が私たちそれぞれに用意してくれているかけがえのない輝きを放ち、また周りをも照らし、ぬくもりや平安、喜び、愛、力を日々受け取りながら歩んでいくものです。そんな新しいいのち、豊かないのちを生きてみたいと思いませんか? あなたはいのちの冠がほしいですか?喧騒から離れる時間を少しだけ用意して、心に問いかけてみてください。
もしほしいと思うなら、このように祈ってみてはいかがでしょうか。
「イエス様、私はいのちの冠がほしいです。もっともっとあなたが日々くださるという平安、喜び、愛、そのほかの様々な恵みを実感しながら毎日を生きていきたいです。そのために必要な力と知恵を与えてください。私はあなたについていきます。主イエス・キリストのお名前によって アーメン」
人が生きながら何を食べるか、飲もうか、また身のために何を着るかと考えるのは当然あることです。しかし、イエス様は、これらを切に求めるのは、異邦人求めることだから、やめなさいとおっしゃいました。多くの場合、クリスチャンは働いてはいけないと誤解されたこともありました。この場合、異邦人が切に求めているとは、自分の人生をただ食べ物や着る物に執着して打ち込むことを意味します。
また使徒パウロ自身も模範を示し、働きながら宣教に励んでいることも話しています[テサロニケT2:9]。また、神様は万物を造られてから、人間に労働するよう命じられました[創世記1:28]。ただ、このような労働が肉のために執着すると、生きる目的や神に造られた人間の尊厳がなくなってしまうからです。
イエス様は、生きるための食べ物や飲み物、着る物のためには、その日その日労苦で十分だから、まず第一に、神の国と神の義を求めなさいとおっしゃいました。
神の国を求めるとは、この地上において神様が統治されることを意味します。これはイエス・キリストを通してその福音による成就を意味します。イエス・キリストは真の王の王、主の主であられ、御自分の民を国として治めておられています。今は目に見えない御国ではありますが、やがて主は来られ御自分の民を治められることを約束してくださいました。そのために、クリスチャンはこのような主の国の到来を求めなければなりません。
神の義とは、主の御心を意味します。神様は義なる御自分の御心を昔は預言者たちを通して現わされ、ついには、御子主イエス・キリストを通して確かなものとしてくださいました。イエス・キリストは義の本質であり、イエス・キリストの御言葉、行い、死と復活すべてが義であります[マタイ福音5:10/ヨハネ福音16:10/ヘブル7:2]。従って、義を求めなさいとは、イエス・キリストの御心がなされますよう求めなさいとのことです。
私たちの生きる目的と宗旨が御心にふさわしく生きるとき、主の御国はすべてのクリスチャンの霊の中で形作られていきます。そのとき主は王としてそこに御臨在され、これがやがてはイエス・キリストが統治される御国が実現され、これがイエス・キリストの再臨と共に完成されるのです。
31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。 33 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 32 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
誰かに何かをたずねる際、このような質問をするなんてと咎められるのではないか、また、本当に求めたものを与えてもらえるだろうかと心配になることはありませんか?
聖書は「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」別の翻訳では「神が何を望んでおられるか知りたいなら、遠慮なく、直接尋ねなさい。神は喜んで教えてくださいます。願い求める人には、神はいつでも惜しみなく、あふれるばかりの知恵を授けてくださるからです。そのことで、決してとがめたりはなさいません。」と語っています。私はこの言葉を知って非常にホッとしたのを覚えています。そしてこれには続きがあります。
「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。」別の訳を見てみましょう。「ただ、その場合、神は必ず答えてくださると確信して願い求めなさい。疑う人の心は、風に波立つ水面のように不安定なものです。そんな疑いの心では、主に何を期待してもむだです。」とあります。
イソップ童話の中にあるコウモリの話をご存知でしょうか。
この話には、鳥の仲間(つばさをもち、空を飛べるどうぶつたち)と獣の仲間(毛皮ときばを持ち、強いどうぶつたち)、そしてコウモリ(つばさも毛皮もきばも持っており、鳥にも獣にもいい顔をする)が登場します。以下のようなお話です。
鳥の仲間が優勢になると、コウモリは「わたしはとりの仲間です!」と言い、獣の仲間が優勢になると「わたしはけものの仲間です!」と言って、自分の得になるようにころころと立場を変えていました。やがて、鳥と獣のけんかが収束の時を迎えましたが、調子良く自分勝手に立場を変えてきたコウモリはどちら側からも信用を失い、仲間はずれにされ、暗い洞窟でさみしく過ごすようになりました。
コウモリの問題点はどこにあったでしょうか。
あなたには好きな野球チームやサッカーチーム、またはラグビーチームがいますか?それぞれのサポーターを思い浮かべてみましょう。彼らは自分たちの応援するチームのユニフォームを身につけて心からのエールを送り、チームの一挙手一投足に注目しています。もしチームが負けたなら一丸となって大いに悲しみ、より良い次へと期待し、買ったなら一丸となって大いに喜ぶでしょう。応援しているチームに心を置いているのです。
コウモリはチームに心を置いていたのではなく、勝利することのみというより、恐れに心を置いていたのではないでしょうか。実際そのような恐れは誰もが抱いても不思議ではないでしょう。しかしコウモリは誰のことも仲間だと思っていなかったのではないでしょうか。鳥たちのことや獣たちのことを信用することよりも、自分の恐れを優先したのかもしれません。疑いの心をもち、信頼を選ばなかったコウモリ。このお話を日本では「ずるいコウモリ」や「コウモリの二心」と紹介しています。どっちつかずのコウモリの心はいつも不安で揺り動かされていたのではないでしょうか。
私たちももしかしたら何らかの不安や恐れ、不信感に囚われてコウモリのようにふるまってしまうことがあるかもしれません。
聖書の中にも二心について書かれているものがいくつもあります。その中の有名なお話の一つを紹介します。
イエスの弟子であるペテロは、湖を歩くイエスを見て自分も歩けるよう招いてくれと頼み、湖を歩きましたが、大風と大波を見て恐れ、沈みそうになり、イエスに助けを求めました。
ペテロが主イエスに目と心を定めている時には湖の上を歩くことすらできたのです。しかし目をそらして世のものに目を止め、恐れた時、彼には疑いの心が芽生えてしまったのでしょう。「このような大風、大波の中にあって自身は湖上に立つことができるわけがない」と思ったのかもしれません。そもそも主にあってそこに立っていたにもかかわらず。
私たちはどうでしょうか。今できていること、与えられているものすら奇跡に満ちたものであり、恵みに他ならないことをつい忘れて、疑いや恐れに支配されてしまうことがあるかもしれません。
私たちは心をどこに置いているかがとても重要なのです。主への信頼を阻害する恐れや疑いに気づくとき、是非それらを打ち捨てて主にある平安を握ってほしいのです。主に信頼して尋ね求めてみてほしいのです。そこには揺らぐことのない平安と大きな喜びが用意されています。次はあなたがそれを手に入れてほしい。そう心から願いつつ。シャローム!
5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。 6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。 8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。
経験したことのない道を行くには、案内人などが必要とされます。それが険しくて危ない道ほどもっとも必要とされます。昔イスラエル民がエジプトから解放され、約束の地、祖先の地であるカナンに向かって旅立ちました。モーセを指導者として前に立てられた神様は、誰も経験したことのない40年間の道のりをカナンの地まで導かれました。民の数、数十万とも数百万とも言われている、大群の群れが、何もない荒野を旅するのは容易なことではありません。それで神様は民の糧として日々マナを降らせて下さり、岩場の裂け目から水を出させられ、飲み水として与えられました。また昼間は雲の柱で、夜は火の柱で民を守られ、周りの敵からも守られました。荒野でイスラエル民を導かれた神様の御命令はイスラエル民の命であって、それでイスラエル民は、いつも神様の命令に従って、旅をし、神様の命令に従って宿営しました。イスラエル民はエジプトを出て一年後シナイ山の所まで来て、そこで神様の律法を頂き、また神様の命令に従って神の幕屋を作りました。幕屋が落成した時から神様のご御臨在の雲や火の柱が幕屋の上に留まるようになり、民はいつも神の幕屋を注目していて、神の柱が幕屋の上に留まる時は、民はその場で宿営し、神の柱が上ると、旅たちをしなければなりませんでした。
宿営の期間が何日でも何か月でも何年でも分からず、ただ神様の命令に従って宿営し、神様の命令に従って旅立ったのです。このようなイスラエル民の旅路とは、今を生きる世にある私たちの旅でもあり、そしてクリスチャンの歩むべき道でもあります。それで、私たちが経験したことのないこれからの生きる道をどう進んで行ったらいいのかを学ばなければなりません。
クリスチャンは荒野でのイスラエル民がいつも神様の幕屋を見つめていたように、私たちはイエス・キリストを見つめて生きて行かなければなりません。そこから他のところに目を反らしてしまったら、行く道をなくしてしまうのです。つねに、イエス・キリストの御言葉に耳と目を留めてその命令に従うこれが、唯一の命であり、勝利です。イエス・キリストの御言葉は真の真理であり、真の命なのです。
御言葉が行いなさいと命令されたら、それを行い、御言葉がやめなさいとおっしゃればそれはやめます。主の御言葉は私たちを生かせるためであり、永遠の命を授けるためであります。私たちは決してイエス・キリストの十字架から目を反らしてはいけません。いつも私たちの主イエス・キリストに目を留めて、その命令に耳を傾けて行きたいと思います。
17 この雲が天幕を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営した。 18 イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。 23 彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通してなされた主の命令に従い、主の言いつけを守った。
先に進みたいのに止められる。どうしても進めない…そんな状況に思い当たりますか?
やりたいこと、現在推し進めていることが何かによって停滞することや止められることがあります。
また止まらざるを得ないことも。
私たちは止まること、留まることを良しとしない傾向にあることがあります。その多くの場合、私たちは物事の目標を定め、そこに至るための計画を立て、それに則って進んでいるでしょう。良い調子で目標達成へと歩を進めているかもしれません。そんな時、外的・内的要因によって突然それが絶たれたり停滞してしまえば、不快に感じても当然です。
では踏切や横断歩道はどうでしょう。私たちは目的地に向かって進んでいても、その途中に踏切や横断歩道があり、止まる必要があれば止まります。これは私たちが安全であるために止まる必要があるところだと知っているからです。そしてまた再度進むことができることを知っているからです。
私たちが止まることを不快に思うとき、もう一度進むことができなくなるのではないかという恐れを握っていないかもう一度心を探ってみる必要があるかもしれません。自身を苛む過剰な焦りがないかを点検する必要があるかもしれません。
聖書の中に、ただ主を信頼して進むよう言われた人物がたくさん出てきます。しかし彼らは主を信頼してとどまることも言われた人物です。アブラハムやヨセフのストーリーを思い出してみましょう。彼らも決して順風満帆というわけではありませんでした。ただ、彼らは主に信頼して進み、そしてとどまった。彼らは主に従ったのでした。世の中ではあまりとどまることを良しとしない風潮があるかもしれません。しかし本質は見えにくいところにあることが多いということも、聖書にみることができます。
少年ダビデは末っ子で、その上には立派で屈強で王に相応しく見える兄たちがいました。「しかし、主は言いました。「容貌や背の高さで判断してはいけない。彼ではない。わたしの選び方は、あなたの選び方とは違う。人は外見によって判断するが、わたしは心と思いを見るからだ。」(サムエル記T 16:7)」こうしてまだ幼く身体も成長しきっていないダビデがイスラエルの王として油を注がれました。
タンポポの根の長さを知っていますか?30?50cm、長いもので1、2mを超えるそうです。根に養分を蓄え、地上部分を失っても再生可能であることからも如何に根が重要な部位であるかがわかります。
私たちは止められる時にまたは休息を得るとき、表に見えにくい時を過ごすときにこそ、計り知れない成長を得ることを思い出してみてください。私たちは睡眠時に心身共に成長することを知っています。
ちょうどこのお話をした9月3日は、ベッドの日(good sleep day)、秋の睡眠の日、アフタヌーンティー文化の日というふうに休息に関連する日がこの日にあるということに驚き、嬉しく思いました。
創世記に6日かけて天地を創られた神が七日目に休まれたという記述があります。
神はその日何をしたと思いますか?創造の業を休まれ、味わい、祝福を深める日とされたのではないでしょうか。愛するものとの時間を過ごされたのではないでしょうか。
私たちの根を養い、主との関係をより一層深める日。主にあって、身の回りのあらゆる良いことに目を止める時間を過ごしてみませんか。主の愛に浸り、心と身体を憩わせる日にしてみませんか。
立ち止まる勇気と題しましたが、この勇気は神への信頼が土台になることを私たちは知っています。
なかなか難しさを覚える時、何が主への信頼を妨げているのかを吟味してみても良いでしょう。見つかったならその重荷を主に委ねて休ませてもらうことができます。苦しみ救いを求めるとき、きっと救ってくださいます。
今こそ主に信頼して留まることを
も楽しみ喜んでいきませんか?
詩篇27篇
13 わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。
14 王主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
ヤコブの手紙1章2
2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。
4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。
イエス様はご自分が世を去られ前に、必ず再び世に来られると約束されました。ただ、その時は誰も知らないから、いつも目を覚ましていなさいと命じられました。 しかし再び来るとおっしゃったイエス様は未だに来られませんでした。時間が経つにつれて主の再臨の期待も少しずつ薄れてしまい、中には信じなくなる人も出始め、それで使徒パウロはイエス様の再臨を現実的こととして話しています。
終わりには、時代の終わり、個人の終わり、歴史の終わりなどがあって、イエス様の再臨は人間の歴史が完全に終わる歴史の終わりとも言えます。他の意味として、イエス様の再臨とは私たちが今までお会い出来なかったイエス様を実際にお会いする時とも言えます。それで、イエス様の再臨が来ていなくても、個人の終わりが来たならば、その人にとっては、主の再臨とも言えます。従いましてクリスチャンはいつも主の再臨を認識しながら生きて行かなければなりません。
使徒パウロは今の時代をまるで「夜」とも表現しています。そして夜が深ければ深いほど、昼が近い、言わば、世の罪や不法が深ければ深いほどイエス様の再臨が近くなるとのことで、クリスチャンは昼、すなわちイエス様の再臨が近くなっているとの認識をもって、それにふさわしい服、言わば聖徒としてのふさわしい行いをもって主の再び来られを待って行かなければならないと話しています。
1. 闇のわざを打ち捨てる。
夜とは、暗くて見えない状態、見ても分からない、言わば感覚のない状態を表します。善悪の判断力がなく、ただ肉の欲や本能によって生きることを表します。言わば、遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、妬みなどなどそれ以外にも、さまざまな罪や汚れなど、でもそれらが決して悪いとは思わない、真理なんて関心がなく、ただ肉の欲で生きる時代であるとのことです。このような時代クリスチャンは罪から離れて、悔い改めて聖い生き方をもって生きて行かなければなりません。
2. イエス・キリストを着る。
イエス・キリストを着るとは、光の武具を身に着けるとも言います。人は自分が身に着けている着飾りを通して身分を表す場合があります。同じくクリスチャンも自分を通してイエス・キリストが現れるようにしなければなりません。これはただ、形でなく、私たちの内におられるイエス・キリストが、私たちを通してにじみ出なければならないことを意味します。言わば私たちから生きておられるイエス・キリストが現わさなければならないとのことです。
クリスチャンは、夜が深くなり、昼が近づいている今、昼にふさわしくエイス・キリストを身に着、キリストの再臨を待つ生き方を持って生きていなければなりません。
11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。 12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
羊は決して強く賢い動物というわけではありません。聖書には世の中で弱いと認識されているものが多く出てきます。不思議に思ったことはありませんか?
有名なゴスペルの映画「天使にラブソング2」の中で女生徒がチャペルでピアノを弾きながら歌っている賛美歌の「心くじけて」をご存知ですか?その歌詞には「スズメにさえ目を注ぐ神」の姿が描かれています。ルカ12:6、7に「5羽の雀が2アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。それどころか、あなた方の髪の毛さえも全て数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。」と書いてあります。羊と同様、雀も決して雄々しく力強い鳥というわけではありません。雄々しい鳥として鷲も聖書に登場します。ですがここではあえて雀が描かれています。
他にも聖書には「小さなもの」として色々なものや人々が登場します。
当時、今以上に大変な思いをしながら必死に1日1日を過ごしていたであろうやもめの女性(寡婦)や将軍に皮膚病の癒やしの可能性を進言した敗戦国から連れてこられた奴隷の少女、生まれつき目が見えずに物乞いをして暮らしていた男性、鼻つまみ者であった取税人、遊女や複数夫のいる女性、世間でもっとも低層とされ人扱いされていなかった羊飼いたち、屈強というには程遠い幼い末っ子…。
私たちは大きなもの、目立つものに目が行きがちです。それは当然のことであり、決して悪いことではありません。では私たち本人はどんな存在でしょうか?いつでも順風満帆で、鋼のメンタルを持ち、悩むことが多少あろうとも悩み続けることなく、他者の目を気にすることなく、全ての人の前で胸を張り、全てに満ち足りた毎日を送っているようなそんな存在でしょうか?
もしかするとそのように見える人はいるかもしれません。ですが弱さを抱えていない人は誰一人としていないのではないでしょうか。弱きもの、小さきものは人の目につきづらいことがよくあります。気づかれたとしても、取り残されたり、蔑まれたりすることもあるでしょう。
しかし聖書の神は違います。小さなものにこそ目を注がれ、神の偉大で壮大でアーティスティックな計画に重要人物として参加させてくださる方なのです。もちろん大きく強いものに目を止めないということではありません。しかしパリサイ人や律法学者たちのように「自分こそは強い」と神ではなく自身に頼る者は退けられます。
マタイ25:31?40に主が再びこられる時に羊と山羊をより分けられ、祝福を得るものと退けられて悪魔と共に火に投げ込まれるものとに分けられる様が描かれています。この中で「最も小さなもののひとりにしたことはわたしにしたのです。」「最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」と書かれているように、私たち自身が小さな者に対して愛を持って行動するのか否か、すなわち「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」ようにと言われていることに従うのか従わないのかということにも主は目を止められるのです。大局にも細かな状況にも主の目は注がれています。
羊は決して強くも賢くもありませんが、非常に従順な動物です。羊のようにまた子どものように謙遜に、素直に主に従う者として成長し、これまでもこれからも繰り広げられる壮大な神の計画に参加していきましょう。きっとこれまで以上に素晴らしい喜びがあなたの心の奥底から湧き出でることでしょう。
合わせて思い巡らしていただきたい聖書の言葉はこちらです。
「神である主は、全能の力を持って来ます。 恐ろしいまでの力で支配し、 一人一人の行いに応じて報います。 また、羊飼いのように群れの世話をし、 子羊を抱いて運び、雌羊を優しく導きます。(イザヤ書? ?40?:?10?-?11)」?????????????
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。(マタイ6:26)」
「まことに、あながたがに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どもひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。(マタイ18:3-5)」
「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:19,20)」
「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)」
31 メシヤのわたしが、その栄光の輝きのうちに、すべての天使と共にやって来る時、わたしは栄光の王座につきます。 32 そして、すべての国民がわたしの前に集められます。その時わたしは、羊飼いが羊とやぎとを選別するように、人々を二組に分け、 33 羊はわたしの右側に、やぎを左側に置きます。 34 王として、わたしはまず、右側の人たちに言います。『わたしの父に祝福された人たちよ。さあ、この世の初めから、あなたがたのために用意されていた御国に入りなさい。 35 あなたがたは、わたしが空腹だった時に食べ物を与え、のどが渇いていた時に水を飲ませ、旅人だった時に家に招いてくれたからです。 36 それにまた、わたしが裸の時に服を与え、病気の時や、牢獄にいた時には見舞ってもくれました。』 37 すると、これらの正しい人たちは答えるでしょう。『王様。私たちがいったいいつ、あなたに食べ物を差し上げたり、水を飲ませたりしたでしょうか。 38 また、いったいいつ、あなたをお泊めしたり、服を差し上げたり、 39 見舞いに行ったりしたでしょうか。』 40 『あなたがたが、これらの困っている一番小さい人たちに親切にしたのは、わたしにしたのと同じなのです。』
聖書はクリスチャンを兵士とも表現しています[Uテモテ2:3]。兵士とは、武具を身に着けて、敵に対抗して戦いのために呼ばわれた人であります。ただクリカチャンの敵とは、血肉の敵ではなく悪霊に対するものです。それで、使徒ペテロは「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすものを探し求めながら、歩き回っています[Uペテロ5:8]。と悪魔に立ち向かうよう話しています。
そのためには、神のすべての武具を身に着けなければなりません。
まさに今は 真理に背く暗闇の力が社会全般に影響して、人の価値観や倫理観などが脅かされています。クリスチャンはこれらの背後で働いている悪魔の存在を知り、それらに対抗して行くキリストの兵士となって行かなければなりません。
1. 腰には真理の帯を締めます。
大体人の力は腰から出ます。それで兵士は腰の帯となるベルトをしっかりと締めて、そこに剣のさやなり
基本的武装を付けて戦場に向かいます。クリスチャンは、真理の帯を締めなければなりませんが、それによって戸惑うことなく、慌てず、悪魔との戦いに対応することが出来るのです。
2. 胸には正義の胸当てを着けます。
昔の兵士たちは敵から放たれた矢から胸を保護するために胸当てを着けました。クリスチャンにとって胸当てとは偽りのない心や信仰良心、真実なるものを言います。これは内なる義とも言えます。人は、神様に対して、人に対して、偽りのない真実な心がなければ、決して大胆になることはできません。
3. 足には平和の福音の備えをはきます。
兵士であれ、誰であれははきものによって足が保護され、遠いところまで移動することが容易になります。はきものが悪ければ身動きが出来なくなることもあります。クリスチャンにとって、福音は、神様の御約束、慰め、癒し、蘇り、祝福の約束があるから、まことの平安であります。それによって、クリスチャンは安心し、平安にいることができるのです。また、クリスチャンは福音があるからこそ、世界中どこにても行くことができるのです。
4. 信仰の大盾を取ります。
大盾とは、敵から放たれた矢や火矢などから身を守るものです。悪魔は絶えなくクリスチャンに向けて、火矢
のような、信仰への不信感、疑い、疑問、論理などを投げ込んでいます。このような、悪魔の挑戦を打ち破るた
めに、信仰がなければなりません。
5. 御霊の剣である神の御言葉を受け取ります。
剣は攻撃のための武具です。イエス様は、いつも悪霊を追い出されたときは、御自分のお言葉をもって追い出されました。主の御言葉は万物を造られた力になり、誰もが従順しなければならない神の力なのです。ですから、神の御言葉は、一番力のある武具になるのです。従ってクリスチャンが悪霊立ち向かうときに用いるものが、神様の御言葉なのです
12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
光の中を歩む」という言葉をよく聞きますが、今日はそのロケーションを海に移してみたいと思います。船が大海原を進むために必要なものがいくつもありますが、今日は船(帆船)をイメージする三つを取り上げたいと思います。
まずは大きなマスト。マストは風を受けてその力で前へ進みます。あるときは穏やかに、あるときは勢いよく進むことができます。
2つ目は舵です。舵は進路を定めます。目的地に向かってどのように向かうのか、障害物を避けるのにもとても重要です。
3つ目は錨です。錨は停泊する場所にとどまるために使います。
ある人がこんな質問をしました。「船は沖合いで停泊するときは普通に碇を下ろすと思いますが、 大型のタンカーや貨物船は、 船体の大質量に対して圧倒的に小さな碇だけで大丈夫なのでしょうか、 潮流や風で流されるようなことはないのでしょうか?」このベストアンサーは、
「船の大きさに応じて、それなりの大きさの錨を使用することになっていますが、 基本的には錨のツメは、「最後のホンのちょっとした引っ掛かり」のようなもの。 船を止める力は、錨のツメではなく、つながっている鎖(アンカーチェーン)で 発揮している、と言っても過言ではありません。 通常、錨を降ろす地点の水深の3倍から4倍の長さで海底に這わせ、その重さで 船を止めているようなもの」というものでした。
当然ではありますが「錨を下ろす」のに錨とチェーンは非常に重要な対の存在であることがわかります。
こんな話があります。「いかに最新型の様々な機能を搭載した高速船であろうとも、目的地が定まって居なければそれは高速で遭難しているのと同じである。また逆にどんなに貧相に見える筏であろうとも、目的地と進路をしっかり定めているのならそれは立派な航海である」と。ですから舵や羅針盤などでしっかりと方向を定めて進むことは航海の根幹を担うと言ってもいいでしょう。
錨を信仰と結びつけて思い巡らしたときに、錨は「どこに」下ろすのか。もちろん主に下ろします。そして鎖の重みは長いほどにそこにとどまることができる。主への信頼や信仰、みことばに従うことであると感じました。これは私たちが何を主とするのかということであり、どんな航海をするのか、なぜ航海をするのかという目的や動機とも言えます。
私たちの航海には動力・方向(進路)・動機(目的地)が必要です。
もちろん主に錨を下ろすことは霊的なことであるので、私たちは錨をおろして居ながらにして航海をすることが可能です。主に留まりながら進むのです。そしてこれこそが光の中を航海することです。
私たちは大海原よりも地上に立つ方が安心です。足元が揺り動かされると不安を覚えます。逆に安定すると安心します。しかしこの世にあっては地震もあれば台風もあり、船に乗れば心地よい風だけではなく翻弄されることもよくあるでしょう。人間関係や様々な状況に揺さぶられることもあると思います。
これらから生じる不安は揺れ動くものに目を止めるときに生じます。マタイ14章で、ペテロが大風で荒れる湖をみて主から目をそらして恐れ、沈みかけたように、目の前で起こる衝撃的な出来事は非常に重要に感じますが、それ以上に重要なお方がいることを私たちもつい忘れがちかもしれません。主に目を注ぎ続ける時、そして主に従い進む時、私たちの中に愛が全うされ不安や恐れは締め出されます(1ヨハネ4:18)。
光の中を航海する時、あなたは内に外に神が共におられ光り輝いています。その時あなたはどんな思いを抱いているでしょう。どんな状態でしょう。それは喜びに満ちた生き方です。詩篇89篇にあるように、主をほめたたえ、主の名を喜び、主の義に歓喜する生き方です。祈り、感謝する生き方です。そのような生き方をしたいと願いますか?大波に翻弄されたり、または無感動な生き方をしたいですか?
初めは難しさを覚えるかもしれませんが、一つ一つ主につながる鎖を増やし、信頼の比重をまし加えるとき、私たちは軽やかに荒波をも越えて進んで行くことができるのではないでしょうか。葡萄の木につながる枝のようにしっかりと主に繋がる時、重いと感じていたその重みは、主が「わたしのくびきは負いやすく軽い」と言われるように、主の手が肩に載せられているようなとても心地よく暖かなものとなるでしょう。気づいたら大海原に止まらず大空をも優雅に航海できたりするかもしれません!私たちは主に目を注ぎ、主を仰ぎ見て、主を待ち望み、光を得、力を得、ワシのように高く上ることができるのですから。私たちは主の栄光を表す船として主の力強い風をその帆に受けて力強く進み、その姿は人々の目に動く灯台のようにも映ることでしょう。それは間違いなく私たちの大いなる主が心から願い、喜ばれることです。
あなたもそんな航海に招待されています。
今、その一歩を踏み出してみませんか?
1 「わたしの民よ、起き上がれ。神の栄光があなたから輝き始めた。すべての民に見えるように、その光を輝かせるのだ。 2 夜のような暗闇が地上に住む者全部を覆うが、主の栄光があなたから輝き出る。 3 国々の民は、あなたの光を慕って来る。力ある王たちは、その上に輝く主の栄光を見るために来る。
1. 御霊とは。
神様は、すべての造られたものが、それぞれ調和を保ち、神の栄光を表すために協力するよう賜物を与えてくださいます。特別に 教会においての賜物や、一般的に社会において与えられる賜物など、社会のすべては神様が与えられる賜物によって成り立っています。
2. 賜物の目的とは。
神様の与えられる賜物にはその目的があります。その目的としては、1)神様の栄光を表すためです[Tコリント10:31]。2)みなの有益となるためです[Tコリント12:7]。
神様は人間にさまざまな恵みと祝福を与えてくださいました。また人間が環境を保ち、発展させるよう知恵と能力を与えてくださいました。それで人間は神様に感謝し、神様の秩序に従い、人が互いに住みやすい環境を作り、保て行くように努力して行かなければなりません。
教会に与えられる特別な賜物にも、人間の高慢さや欲のためではなく、互いに使え合い、協力し、支え合って神の教会を成り立たせていくようにして行かなければなりません。
3. 賜物の種類とは。
神様は、社会が維持されるために与えられる一般的な賜物も無数あります。政治、経済、法律、医療、文化、技術などなど、これらすべては神様が与えられる賜物です。
教会においては、同じ御霊による知恵の言葉、知識の言葉、癒しの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言を解き明かす力[12:8-10]、使徒、預言者、牧師、奇跡を行う、癒し、助ける者、治める者、異言を語る者など[12:28]などはすべて神様が与えられる賜物であります。それによって主の教会が維持され、発展して行くのです。
使徒は、賜物の中で、一番求められるべき優れた賜物は「愛」であると言います[13:13]。愛は他の賜物として一番のものであり、他の賜物がなくなってもなくならないものであります。イエス様も律法のなかで一番は、「神様を愛し、隣人を愛する」ことであると教えられました[マタイ福音22:36-40]。
クリスチャンは愛の中で生きて行かなければなりません。神様を愛し、隣人を愛することこそ神様が喜ばれる他のどんな賜物よりも優れた賜物なのです。
4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。 5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。
14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。 16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。 17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
詩篇100篇 感謝の賛美
1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。
5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。
?心に感謝を持ちながら主の庭に入ろう?という賛美に歌われる「主の庭」と聞いて、どんな場所を思い浮かべますか?
平和で喜びがあって、豊かで、詩篇23篇に出てくる緑の牧場や、詩篇1篇にあるような川の流れのほとりに木がうわっているような、またその流れは[ヨハネの福音書 4:14]にあるような決して渇くことのない水、永遠の命への水が枯れることの無い泉から湧きいで、生ける水の川となって流れているもの[ヨハネの福音書 7:38,39]を想像するのです。
それはさながら創世記にあるエデンの園のようなものではないだろうかと感じました。
さて、「となりのトトロ」などで知られるジブリ映画宮崎駿家督は「悪人をやっつければ世界が平和になるという映画は作りません」と語ったそうです。
「あらゆる問題は自分の内面や自分の属する社会や家族の中にもある」ということをいつも踏まえて映画を作らなければいけないと思っているからと続けて言っています。
私たちが真に闘うべきもの、向き合うべきものが何なのかを考えさせられる言葉です。
マタイ5:43 44に「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と書いてありますが、「あいつが悪い」と裁いたことがありますか?数え切れないくらいあります。それが心を平安にしないことや、よくないことであることはきっとわかっているのです。それでも裁いてしまう。そんな経験はないでしょうか。
私たちはそんな良くない思いをよく抱きます。そんな姿で祈ること、主の前に出ることは相応しくないでしょうか。そんな私たちを主は拒絶するでしょうか。
祈りは願い求めることでもあり、主との対話であり、礼拝でもあります。これは主との関係の中で行われるものです。
祈るとき、感謝をもって主の庭に入るとき、私たちは主との深い関係を持ち、あの葡萄の木に例えられたようにしっかりと主という幹に繋がる良き枝となっているのではないでしょうか。
「主は常に、自分の子どもたちを守り、その祈りに耳を傾けてくださいます。(ペテロの手紙T? ?3?:?12)」? ??祈り、主とつながり、主との関係がそこにある時、私たちは主の庭にエデンのような地にありながらにして御国にあることができるのでは無いでしょうか。??
ダビデは良く恨みごとや願いごとを詩篇の中で歌い、祈っています。これは決してひとりごとではありませんでした。悩んではいけない、怒りを抱いてもいけないのではなく、悩み続けたり、怒り続けて、それにとらわれ、それにばかり目を向けることをしないようにと聖書は語っているのです。
「私は山に向かって目をあげる」とあります。山を通して造り主である主を見ているのです。ダビデは悩んでは主に訴え、怒っては主に向かってつぶやき叫んでいます。悩みや怒りを通して主を見上げているのです。
私たちが主を見上げ、主にフォーカスする時、その悩みや怒りに捉われずに済むのです。
どんなに悩み、怒っていても、それを主に語り、助けを求めるとき、あきらめずに主を求め続けるとき、それらを主にゆだねることができ、感謝と賛美、喜びが溢れてくるのです。
その様が詩篇にあるダビデの歌にありありと現れています。
私たちにこれを知ってほしいと主は願っておられます。ひとりで頑張って解決することなんて望んでおられません。
感謝できないとき、喜べないとき、これからも沢山あるかもしれません。その時、そんな自分を責めますか?それとも主に訴えますか?是非主をそこに巻き込んでください。主は私たちと大いに関わりたいと思っておられるのです。ひとりきりでも、孤独になり得ないことを知ってください。それは主との2人きりの時です。
何に注目しますか。あなたの心の目は何を映しているでしょうか。感謝な時はもちろん、傷ついたり、苦しみ悩む時、誰かを赦すことが難しい時、あなたの助け主である主に、そのままのあなたの思いを話してみてください。あなたの「二人きり」の時間を心から祝福します。
詩篇100篇 1 大地よ。主に向かって喜びの声を上げなさい。 2 喜びをもって主に仕え、喜びの歌を歌いつつ、神の御前に進み出なさい。 3 主が神であるとはどんなことか、悟ることができるように努めなさい。主は私たちをお造りになりました。私たちは神の民、その牧場の羊です。 4 感謝の思いも新たに神殿の門をくぐり、賛美の歌声とともに宮の内庭に入りなさい。さあ、感謝してほめたたえなさい。 5 主はいつも正しく、愛と思いやりに満ち、いつまでも変わることのない真実を示されるからです。
マタイの福音書6章21~23節 21 あなたの財産が天にあるなら、あなたの心もまた天にあるのです。 22 目が澄みきっているなら、あなたのたましいも輝いているはずです。 23 しかし、目が悪い考えや欲望でくもっているなら、あなたのたましいは暗闇の中にいるのです。その暗闇のなんと深いことでしょうか。
1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、 2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。 4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。9 従って、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。10 神の安息に入った者ならば、神が御自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。11 ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして務め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか
助けを呼ぶとき、心の拠り所にしている人、この人なら助けてくれそうだという人を呼ぶのではないでしょうか。では「拠り所」や「助けてくれそう」とは具体的にどんな要素を含んでいるんでしょうか。そのヒントとして、250人の男女に「結婚の決め手になったこと」についてのアンケート結果を見てみたいと思います。
男性 |
女性 |
1位 辛い時にそばで支えてくれた |
1位 辛い時にそばで支えてくれた |
2位 一緒にいてストレスがなく楽しい |
2位 一緒にいてストレスがなく楽しい |
3位 手料理が美味しい |
3位 価値観、性格が合う |
4位 趣味が同じ |
4位 趣味が同じ |
5位 価値観、性格が合う |
5位 笑いのツボが同じ |
6位 転勤についてきてくれた |
6位 仕事の悩みを真摯に聞いてくれた |
7位 笑顔が可愛い |
7位 食の好みが同じ |
興味深いのは男性も女性も、辛い時にそばで支えてくれた、というのが第1位、自然体で一緒に過ごせる、というのが第2位にきている点です。それ以外は順位や内容が男女で多様化しています。
このことは男性と女性が何をより必要としているかの違いに起因しているのではないでしょうか。
聖書は男女の違いについてどう語っているでしょう。男性は自身や自身の選択を尊ばれることを必要とし、結果や勝ち取ることを大切にします。女性は愛されることを必要とし、過程や関係を大切にしていることが書かれています。
アンケートで共通していた上位二つの内容は、良き助けとなってくれること、ありのままの自分を受け入れてくれて、憩いの場となってくれることとも言い換えることができるのではないでしょうか。これは男女関係なく、人が必要としていることであるとわかります。
アメリカの心理学者であり、作家であるゲイリー・チャップマンは「愛を伝える5つの方法(言語)」という本の中で、愛の表現を紹介しています。
1.肯定的な言葉
2.クオリティタイム
3.贈り物
4.奉仕、サービス行動
5.スキンシップ
あなたはどの表現に愛を感じますか?これは人によって、または状況によって変わってくると思いますが、もし妻が2や4の表現である「ゆったりとくつろぐ時間が欲しい」また「何か手伝って欲しい」という思いを持っている時、夫が自身がより愛を感じる表現である5のスキンシップで愛を表現しようとしたなら、妻はどう感じるでしょう。愛を感じ、受け取ることができるでしょうか。ほとんどの場合難しいでしょう。むしろ喧嘩になるかもしれません。夫は愛を表現しようとしているのになぜ伝わらないのでしょうか。逆もそうです。夫が1や5を求めている時に妻が3や4で愛を表現してもなかなか夫は自分が大切にされていると感じにくいかもしれません。もし何らかの否定的な言葉で大きく傷ついてしまうこともあるでしょう。愛を表現するにはneedsを知る必要があります。その人が求める助けを与えるためには、その人のことをよく知る必要があります。
私たちは助けてくれなさそうな人に助けは求めません。助けてくれる、またその力のある人に助けを求めます。では誰が、あなたのことをよく知り、よく見ているのでしょうか。
それはあなたをつくった方、神さまです。詩篇139篇には、「主(神)よ。あなたは私を探り、知っておられます」とあり、座るのも立つのも、思いも歩みも伏すことも、どんなことを語るのかすらその口に登る前から知っていると書いてあります。母の胎で神があなたを組み立てたのだとあります。マタイ10章には私たち自身が知らない髪の毛の本数すらもご存知だと書いてあります。
ただ知っているのではありません。愛の眼差しであなたを見つめ、あなたの必要を知り、備え、与えてくれるのです。
それは聖書に書いてある神なのです。現在進行形で私たちに関わってくれる、関わりたいと願ってくれる天の父であり、イエス・キリストであり、聖霊なのです。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは天地を造られた主から来る(詩篇121:1、2)」とあるように、私の助け、あなたの助けは全知全能の主からやってくるのです。
あなたが助けを必要とするとき、まず「主よ、私を助けてください」と呼びかけてみませんか。「わたしはあなたを母の胎内につくる前からあなたを知っていた。(エレミヤ1:5)」という神が、あなたに本当に必要な助けを既に備え、あなたが呼ぶのを待っています。愛するあなたに呼んで欲しいと、手を伸ばし、求めて欲しいと願っておられるのです。
1 主よ。あなたは私の心の奥底まで探り、 どんなささいなことも見のがされません。 2 私の立つのも座るのも、すべてご存じです。 遠くからでも、私の心をすべて読み取られます。 3 あなたは、私の進む道もご存じで、 どこで休息をとるべきかも教えてくださいます。 どんなときも、私の居場所もご存じです。 4 そして、口を開く前から、 私が何を言いたいかも見抜いておられます。 5 あなたは私の前を行き、後ろからも来られます。 あなたは私に、祝福の御手を置いてくださいます。 6 このようなことはあまりにも栄光にあふれ、 すばらしい話なので、 ほんとうだとは信じがたいほどです。13 神は、精巧に私の体のすべての器官を造り、 母の胎内で組み立ててくださいました。 14 こんなにも複雑かつ緻密に 仕上げてくださったことを感謝します。 想像することもできないくらい、すばらしいことです。 あなたのわざは驚くべきもので、 私にはとうてい、理解することはできません。 15 だれも立ち入ることのできない場所で 私が組み立てられた時、あなたはそこにおられました。23 ああ神よ。 私の心を探り、内面を調べ上げてください。 24 あなたを悲しませるようなものがあるなら、 教えてください。 私が永遠のいのちへの道からそれないように お導きください。
テモテ2:7 主のために、長いあいだ困難な戦いを続けてきた私は、主への真実を守り通しました。しかし今、ついに、休む時が来たのです。 8 天では栄冠が待っています。正しい裁判官である主が再び来られる日にいただく冠です。もちろん私だけにではなく、主を熱心に待ち望む人々全員に授けられるのです。
ヘブル: 1 このように、数えきれないほどの多くの証人たちが、競技場の観覧席で私たちを見つめているのです。だから、うしろへ引き戻そうとする力や、まとわりつく罪をふり捨てて、神の用意された競走を忍耐をもって走り抜こうではありませんか。 2 あなたがたの信仰の指導者であり教師であるイエスから、目を離さないようにしなさい。イエスは後にある喜びを知って、恥辱をものともせず十字架にかかられました。そして今は、神の王座の右に座しておられるのです。 3 罪人たちの恐ろしい反抗を忍ばれたイエスのことを、いつも思っていなさい。あなたがたが気力を失い、弱り果てることがないためです。
13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。 16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
どんな時にも日常の中に「良いこと」を見つけるのが得意な少女がいました。彼女は生まれた街を離れて叔母様と暮らすことになりました。生まれてすぐにお母さんが天に召され、大好きだったお父さんもまた、天国へと旅立ったからでした。叔母さまはある傷ついた出来事から心を閉し、あまり親切ではありませんが、身内の義務として少女を引き取ってくれました。教養のある人で、その町の婦人会のメンバーでした。ある時婦人会の当番が叔母さまの番になりましたが、代わりにこの少女が引き受けることになりました。町の中に病気で寝たきりの婦人の元へ食事を届ける役目です。この婦人は長期間にわたる不自由さから、心も頑なになってしまい、とても「偏屈」になってしまったことで、誰もがこの役目をイヤイヤ行っていました。この少女が初めて訪ねた時も、「あぁ嫌だ嫌だ。こんな子どもを寄越すなんて」とか「あぁ嫌な日だ。私は鶏肉が食べたかったのに牛の煮込みだなんて」などと言いました。少女は「あぁ良かった!」と言いました。婦人はは驚きました。そんなこと言う人はこれまでいなかったからです。「何が良かったんというんだい」と尋ねると「おばさんは鶏肉がお好きだって分かったわ!だからあぁ良かったって思ったの!」少女はたびたびこの婦人を訪ね、その度に「あぁ嫌だ」「なんて日だ」と言われましたが、少女はいつも「あぁ良かった!」と言って見つけた「良かった」を婦人に話して聞かせました。そのうち婦人は少しずつ心が明るくなり、暖かくなり「偏屈」から抜け出していき、体の症状も快方へと向かったようでした。少女の名前は「ポリアンナ」と言いました。彼女と全く同じようにとはいかなくとも、私たちの日常に散りばめられている「良いこと」を見つけ出すことができたらどんなに素敵でしょうか。ワクワクして来ませんか? 私たちが歩む道のりにどんな奇跡が隠されているのでしょう。目立つところにあるものもあるかもしれませんが、それを見つけるためには私たちはしっかりと目を覚ましている必要があります。そして探す必要があります。もし隠された宝物を発見できたなら、それは大いなる喜びとなるのではないでしょうか。 神は私たちに「大いなる良い計画」を用意してくれているのだと聖書は語ります。この新しい一年、大いに期待していこうではありませんか!そしてその約束を目の当たりに、その奇跡を見つけられたなら、その喜びを主に感謝し、大いに賛美し、分かち合おうではありませんか。最初のクリスマスの夜に羊飼いたちがしたように、私たちも世界中どこででも、この感謝と喜びを、また苦しみや悲しみの時にさえ寄り添い、奇跡をもたらしてくださるその奇(くす)しいユニークな神のわざを賛美しましょう! 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、 平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。(エレミヤ29:11-13)」
1 世界中どこででも、主に新しい歌をささげましょう。 2 賛美の声を上げましょう。日ごと、だれかに、神の救いを人々に知らせましょう。 3 栄光に輝く主を世界中に伝え、神のお働きを話して聞かせましょう。 4 主は、ことばで言い表せないほど偉大で、大いにほめたたえられるべきお方です。他の神々に は目もくれず、このお方だけを礼拝しなさい。 5 他国の神々は、人が作った偶像にすぎません。しかし私たちの主は、天を造られたお方です。 6 栄誉と威光が神を包み、力と美が宮に立ちこめています。 7 世界の国々よ、主だけに栄光と力があることを認めなさい。 8 主にふさわしい栄誉をささげ、供え物を携えて来て礼拝しなさい。 9 きよい生活を守ることによって主を礼拝しなさい。全地は神の前で震えおののきなさい。 10 諸国民に、主の支配が行き渡ると告げなさい。神の権威はいつまでも落ちることなく、主はすべての国を公平にさばかれるのです。 11 天は喜び、地は小躍りしなさい。見渡す限りの海は、鳴りとどろいて神の栄光を伝えなさい。 12 青々とした野原を見て、ほめたたえなさい。草の一本一本が、主の偉大さを物語っているのです。森の木々も、こずえを鳴らして賛美しなさい。 13 主は世界をさばくために来てくださり、公平で真実なさばきを下されます。
1 アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。
2 サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」アブラムは、サライの願いを聞き入れた。
3 アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。
4 アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。
5 サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」
6 アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。
7 主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、
8 言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、
9 主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
10 主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
11 主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。
12 彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので/人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」
13 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。
14 そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。
15 ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。
16 ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。
イエス様が復活の後、弟子たちはこれからどうしたら良いのか、何をしたらいいのか分からず、それで、以前やっていた漁師に戻ることにし、テベリヤ湖畔にやって行きました。しかし、彼らは一晩中網を下ろしたが一匹の魚も取ることができませんでした。その時イエス様が現れ、網を舟の右側に下ろすことを命じられ、そのとおりにやったところ、沢山の魚が取れたので、やがて彼らの目が開き、命じられたのが自分たちの主であることに気がつきました。
復活されたイエス様は、三度目テベリヤ湖畔に現れ、漁に疲れていた弟子たちに食べ物を用意してくださり、弟子たちと共に食事をされてから、ヨハネの子シモンに三回も「あなたはわたしを愛しますか。」と聞かれました。
イエス様のこのようなご質問は、もしかすると三度もイエス様を否認したことがあって[ヨハネ福音18:17-27]、それによる心に重荷を持っていたペテロを立ち直せるためのものだったかも知れません。またこのイエス様のご質問は、他の弟子たちにも、今を生きる私たちに聞かれるご質問でもあると思います。
シモンに対する「あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか。」とのイエス様のご質問は、私たちが主イエス様をどのように愛しなければならないかを教えてくださる内容でもあります。
私たちは多くの「愛」の中で生きています。たとえば家族の愛、恋人の愛、友人の愛、民族の愛、クリスチャンにとっては何により神様の愛をよく理解しています。そんな中でイエス様の「この人たち以上にわたしを愛しますか。」と聞かれたのは、、私たちがイエス様を愛する時に、世のどの人よりも、世のどのようなものよりもそれ以上の愛を持って愛しなければならないかを教えられる御言葉です。
イエス様は、すべての神様の戒めの中で、第一が「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。」ことであって、神様に対する愛がすべてのものに勝ったものでなければならないとのことです。[マルコ福音12:33]。では、私たちが主を愛するとは具体的にどのようなものでしょうか。それは、イエス様の教えを守って従うことです[ヨハネ福音14:15,23,24;15:10]。
また、イエス様はペテロに あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。とおっしゃいました。それは、イエス様を愛するには犠牲が伴うことがあるとのことです。実際に歴史の中で、イエス。キリストを愛するがゆえにどれほどの犠牲が伴われたかがよくわかります。
イエス様は、御自分を愛する者を決して忘れることはありません。主を愛する者を花嫁とされ、永遠なる御国に迎え入れ、永遠なる幸いをお与えになります[マタイ福音25:10]。
17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
イエス・キリストが十字架の上でお亡くなり、葬られた三日後、お墓を訪れたマクタラのマリヤ、他のマリヤとの女性たちはイエス様の復活を知り、その事実をお弟子たちに伝えました。その後、弟子たちが集まっていた時、復活されたイエス様がそこに現れました。しかし弟子の中トマスはそこにいなかったので彼は信じることができなかったです。
トマスは自分の手など感覚を持って確認しないと信じることができないと言いました。その後トマスといっしょに弟子たちが集まっていた時、復活されたイエス様が現れ、トマスに自分の手を持ってイエス様の復活を確認し、信じない者にならないで、信じる者になりなさいと言われました。そのうえイエス様は、「見ずに信じるものは幸いである」ことをおっしゃいました。
今も、クリスチャンではない世にある人たちは、イエス様の復活を信じていません。なぜならば、人たちは自分が経験しなかったことは信じることができないからですし、また復活とは常識に反することだから信じないとのことです。しかし、イエス様の復活は、真実であり、信仰をもってのみの確信することであるからです。
信仰とは人の感覚によりません。なぜならば、人の感覚とは非常に不完全なものだからです。また信仰は、知識や倫理、道徳や価値観などに基づきません。信仰とは神様の御言葉と御約束に基づいて、それを信じる信仰によるものだからです。
イエス・キリストの復活は死に対する勝利の宣言です。神様は命の根本であり、神様は命の造り主になられて、決して死は命に打ち勝つことができません。イエス・キリストの復活は信じる者に対する命の約束です。それで誰であってもキリストにあるならば、死んでも生きるとの約束であり[ヨハネ福音書11:25]、それをイエス様御自身の復活を持って証明してくださいました。
イエス・キリストの聖霊による御誕生、十字架のあがないの死、復活は福音の根本です。クリスチャンは、すでにキリストの中にある永遠なる命の中に生きている者であることを認識し、世にあってさまざまなことにあっても失望せず、ただイエス様の御約束を信頼しながら、この中を歩んで生きたいと思います。
26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。 27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」 29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
ある日 イエス様が弟子たちとユダヤからガリラヤへ行かれることになりサマリヤ地方を通らなければなりませんで した。それでサマリヤ地方のスカルと言う町に寄られた時、井戸のかたわらで、その町の不幸せな人生を過ごして来たある女性に会われました。その女性はイエス・キリストに会うことによって、今まで自分を苦しめていた過去の不幸せから抜け出され、喜びに満ち溢れる新しい人生を迎える祝福が与えられました。
1. 絶えない世の渇き。
幸いとか、幸せとは世の多くの人たちが求めているものです。たとえば「幸せになりたい。どうしたら幸せになるのだろうか」など、それで自分なりの幸せを求めて、美味しいものを食べながら幸せを感じたり、いい所を旅行しながら幸せを感じたりします。もしくは、娯楽や趣味に夢中して自分の生き甲斐のようなものを得ています。しかしながら、これらは一時的なもので、それらがなくなると、また求めるようになります。スカル町でイエス様に会った女性が 井戸の水を飲んでもまた渇きを覚えたように、心の渇きを満たすために、代る代る5人の男性を夫として暮らして来ても、心の渇きは満たされることはできませんでした。
2. イエス・キリストが与えられる幸い。
そこでイエス様は「この水を飲む者は、だれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くみとはありません。」とおっしゃったのです。なぜでしょうか。それはイエス様が与えられる水は「その人のうちで泉となり、永遠の命の水が湧き出る」からです。言わば、イエス様が与えられる水とは、外から毎回補うものではなく、むしろ、人の中から湧き出るもので、しかも絶えなく命への水として出るからです。
3. 命への水。
命への水とはイエス・キリストが与えられる聖霊です
[ヨハネ16:7]。しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
[ヨハネ7:37-39] だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。
[ヨハネ3:5,6] イエスは言われた。まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
聖霊は神の御霊としておられ、天地万物の働きから、キリストの十字架による救いの御わざを実現してくださる方です。それで、誰でも心の扉を開いて、イエス・キリストを受け入れるのなら[黙示録3:20]、聖霊様が共におられ、その人を闇から光へと、絶望から希望へと、悲しみから喜びへと、滅びから救いへと、死から復活へと、またイエス・キリストの十字架の血潮により、地獄から天国へと、導いてくださいます。
[ヨハネ6:35] イエスは言われた。わたしが命のパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
誰でも、イエス。キリストを心の中に受け入れるのなら、聖霊様がその人の中で働かれて、渇き切った暗い運命から解放され、私たちが一人になって世を去る時も、イエス・キリストは共におられ、永遠の命へと導いてくださいます。
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。 9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。 10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。 12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。 13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、 14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。 15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。 16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。 17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。 18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。 19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。 20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。
17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
19 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。 20 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。 21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。 22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。 23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。 24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。 25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。 23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。 26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。 27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。 28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
今日、企救エクレシア週報の表紙の写真スペイン、バルセロナ「サクラダファミリア大聖堂」を見てびっくりしました。実は羽田空港に向かうタクシーの中で運転手さんとサクラダファミリアの事を話していたからです。 サクラダファミリアの意味は、神の家族「イエス様、その父ヨセフ、母マリア」を示す言葉でありそれは、神の家族であるクリスチャンを象徴しているのだと思います。さて私は2012〜2015年の間、ドイツのケルンという町で日本語教会の牧師をしていました。その貴重で宝ともいえる出来事を皆さんと分かちあいたいと思います。
その前にドイツの教会のシステムについて少しお話したいと思います。日本の教会は献金や寄付によって経済的なものを補っていますが、ドイツでは、国が教会の為の税金を国民から徴収しそれを各教会に割り当てています。つまり、経済的には国が教会を運営しているともいえます。
しかし、近年、教会税の集まりが悪くなり、日本語教会の援助が打ち切られてしまいました。それも、私が赴任する年にです。グッド(バット)なタイミングです。(笑)
私は、そのことを承知で「何とかなるさ〜」くらいの感覚でドイツに赴いたのですが、当のケルンの教会員たちはそうではなかったようで、これからの教会運営について大きな不安をもっていて、教会員の心をバラバラに引き裂いていました。そのうえ冬のドイツは薄暗く太陽の出ない日が続き、また私を追い出そうとする様々な働きを受け、さすがの食いしん坊な私も食事も喉を通らない日々が続き、ついには鬱(うつ)になってしまいました。
そんな時に、スペインのバルセロナの教会での奉仕の仕事の依頼が来ました。この時、私は体調不良を理由に断りました。しかし、その教会のお世話役の女性が、「先生!そんな時だからこそ、是非バルセロナに来てください。きっと元気になりますから。」と言って、しきりに勧められるので、その奉仕を引き受けることにしました。そして距離にして1200Km、飛行機で2時間かけて空港に降りた瞬間、その理由を知りました。太陽はサンサンと輝き、どこまでも続く青空、薄暗いケルンの空とは大違いです。バルセロナの教会の兄弟姉妹との交わりや奉仕のなかで、大事な何かを主は与えてくださいました。私は、それまで自分で何かをしようとジタバタしていました。自分で何かをすることを主が支えて下さることは確かです。しかし、「本当に苦しい時、人や被造物の力ではどうしようもない時に、解決できるのは主のみである」ということです。それからひと月、余計なすべての動きをやめて、主におまかせしてひたすら祈りました。すぐには解決しては頂けませんでしたが、主は一歩一歩、私自身とケルンの兄弟姉妹たち一人ひとりに働いて下さり、教会を一つの家族として下さいました。主は、必要な時に必要なものを必要な分だけ、確実に与えて下さいました。決して多過ぎず、不足なく丁度よく、ケルンの教会にその恵みを与えて下さったのです。ハレルヤ!!
今日の御言葉の締めくくりの部分を、共にわかちあいましょう。
待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(詩篇27:14) 主は、「何をクヨクヨしている。今すぐ元気になれ(怒)!」というような御方ではありません。最高のタイミングで必要(私たちが気づかないでいる必要まで)を満たして下さるのです。私たちは、どんなに健康で力強く見える時でも自分の力で雄々しくなることも、心を強くすることもできません。
ただ、主のみがそれを可能とされるのです。アーメン!!
【ダビデの詩。】1 主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。 2 さいなむ者が迫り/わたしの肉を食い尽くそうとするが/わたしを苦しめるその敵こそ、かえって/よろめき倒れるであろう。 3 彼らがわたしに対して陣を敷いても/わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても/わたしには確信がある。4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。 5 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ/幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ 6 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ/主に向かって賛美の歌をうたう。 7 主よ、呼び求めるわたしの声を聞き/憐れんで、わたしに答えてください。 8 心よ、主はお前に言われる/「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。 9 御顔を隠すことなく、怒ることなく/あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください/見捨てないでください。 10 父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。11 主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。 12 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者が/わたしに逆らって立ちました。 13 わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。 14 主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
2015/08/2 主日礼拝 メッセージ:「消えない喜びはどこから」
御ことば(ルカによる福音書10章20節)
だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。
(2015/7/5)今日イエス・キリスト復活の記念の日に北九州希望の光キリスト教会初代牧師 原田昌樹先生をお招き致しました。原田昌樹牧師のメッセージを通して語られる「みことば」の一つ一つが私たちの霊的成長・信仰の糧となりますように! 私たちの心の耳と目をも開いてください。主イエスキリストの御名をもってお祈りいたします。アーメン |
御ことば(ヨハネによる福音書10章17〜18節) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」 |
メッセージ:「イエスのしめされた愛」 |
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今日は、イエスの示された愛ということで、皆様とイエス様の心をご一緒にシェアしたいと思います。 イエス様はクリスチャンでない人々の中には、十字架に掛けられ処刑され、弟子たちから見捨てられた大したことのない哀れな人物としか思っていない人もいます。しかし、神様のご計画を真に知ろうとするならば、イエス様の人生は十字架に向かって生きていたと言えます。イエスが自分の十字架の道を弟子たちに預言されたとき、ペテロは「そんなことは有ってはなりません」といってイエス様を諌めようとしますが、それに対してイエス様は、ペテロに「サタンよ!さがれ。お前は、神のことを思わず人のことを思っている。」と言いました。そうです、イエス様は私達の私のこの汚いドロドロした罪を背負って、十字架に向かってくださったのです。イエス様は、御父から出た愛、私達を握りしめ、だれも離さず抱きしめ、愛するという決意から出た十字架に向かって生きたのだと言えます。 |
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イエス様は今どこにおられますか? そうです、私たちのこの胸の中にいます。自分を悔い改め、どんなに自分を変えようと努力したとしても罪を拭い去ることは出来ません。神様と向き合い、自分の無力さ汚さをしり、そこをスタートとして、イエス様が全人類の罪を背負って十字架に向かい、復活されたという事実。ただ、このシンプルな福音を信じるということだけで、別に神学を学び、またギリシャ語やヘブライ語に通じ聖書を研究し尽くし、何か大変な苦行をする必要もなく、ただ、福音を信じることで、大祭司しか入ることの出来なかった至聖所に、そう私たちの心をその至聖所にしてくださったのです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
そのイエス・キリストの示された愛というのは、感情に左右されるようなものではありません。私たちは、ボールのように転がる感情に左右され、あの人は嫌いだとか、また、人だけでなくいろいろなものを裁きます。しかし、それは当然な心の動きです。神様が人を作られて久しいのですが、誰一人として同じ人間はいません。それは、あなたは、かけがえのない唯一無二の存在であり、あなたしか出来ないことがあるのだという神様からのメッセージでもあります。それは、その人を愛するという決意です。違う言い方をするとその人を理解すると言えます。しかし、私たちにそれが可能でしょうか? 極端な言い方をすると、私は生まれて以来一度も自分を理解出来たことがないのです。では、どうすればよいのか? 解ろうと努力し続けることです。そうすることを決意することです。イエス様の愛も、決意から来ています。 イエス様の愛は、3つの部分に集約されます。神を愛しなさい。隣人を愛しなさい。自分を愛しなさい。 「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」(マタイ22:37-39) わたしたちは、いままで自分を解って欲しいとばかり思っている人生でした。 しかし、キリストの愛にふれ、悔い改めるならば、“「この人を解ろう、解りたい」と、全くベクトルが反対に向きを変える人生を選択する”という決心をするということ、どんなに私たちが失敗し、言ってはならないこと、しては成らないことをしてしまっても、主は愛してくださいます。そんなふうに、人を愛するように変えられていくのです。今日、明日変わらずとも、いつか必ず変えられていきます。主は無理やり変えるのではなく、道を示し、そして忍耐強く私たちが変わるのを待っていて下さるのです。 |
私たちが、神の愛を実践しようとする時、自分の愛のなさや自分のわがままな部分を見せつけられます。隣人に目を向けると、相手を理解できないこと、傷つき傷つけあうこと隣人に目を向けなければ味わうことの無かった挫折感や無力感にさいなまれます。 しかし、主は言います。「あなたの敵を愛しなさい」と! 私たちは、選択することができます。あの人は気が合うから隣人にしょう、あの人は全然自分の事を理解しようともしないし、気が合わないので隣人とするにはどうかなぁ?とか。 |
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イエス様は、「 43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:43-48)と言われます。選択の余地がありません。“どんな人でも愛する”決意を求めておられ ます。“完全でありなさい”とは、イエス様の霊を内に頂いているということを忘れないということです。 | |||||||
わたしたちは、イエス様の霊を内に抱いているために隣人と向き合います。向き合った結果、私たちは、苦しみ、憎しみ、裏切り、心の中の葛藤が生まれます。心からの呻きや神様に対する愚痴が出て、そして祈りが生まれます。ヤコブのように神と格闘することとなります。その中で、こんな醜い、とんでもない自分でさえも愛してくださっていること、こんな者の為にイエス様は十字架に向かわれたと言う事実と愛とを知ることができます。 | |||||||
私たちはその中で変えられて行きますが、何が私たちを変えてくれたのでしょうか? 隣人を愛したことでしょうか? 神さまを愛したことでしょうか? 違います。隣人と向き合ったことで、傷つけられたこと、呪われたこと、迫害されたことが私たちを変えるのです。「3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)とあります。 イエス様は、苦しみを受ける時飛び上がって喜べ、と言われました。神の愛を知り決意をもって隣人に向かうとき、傷つき、自分の汚さを知り、そんな自分が愛されていることを知り、再び向き合い続ける。イエス様は、私たちが、傷つけること、裏切ること、呪うことを想定して、なおかつ愛することを決意し、十字架に向かうことでしか私たちの罪を拭うことが出来ないことを知って、なおかつ私達を愛してくださった。そのイエス様にならうものと主が変えてくださるというこの事実を知りました。 私達は、その苦難、迫害、呪いを受ける時、飛び上がって手を打ち鳴らして喜びましょう!! 感謝!! |
2015/7/5 礼拝の様子 | |||||||||||||||||||
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聖書拝読 |
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祈り |
特別賛美(アメージンググレース) |
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(2015/6/28)今日は、日本基督教団深沢教会主管牧師 齋藤(さいとう)篤(あつし)先生をお招き致しました。齋藤(さいとう)篤(あつし)牧師の メッセージを通して語られる「みことば」の一つ一つが私たちの霊的成長・信仰の糧となりますように! |
御ことば(エペソ人への手紙2章14〜22節) ◆キリストにおいて一つとなる | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。 19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
メッセージ:私たちは神殿です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2015年4月に着任して、この企救エクレシアのホームページで皆さんに会えたこと感謝です。この教会の名前ですが、エクレシアという名前の教会は、この日本では多くないと思います。ギリシャ語の聖書原典にあるエクレシアという言葉は、日本語の聖書では、教会と訳されていることばです。けれども、エクレシアとはキリスト教の教会のみを示す言葉ではなく、呼び集められたものの意味であって、集会という意味の方が本来の意味に近いものです。しかし、私たちは、私たちの集会が単なる集会でないことを知っています。今日の御言葉のなかで、「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」(エペソ2:19)とあるように、私たちは、神の家族であるといえます。私たちは、呼び集められここに集ったとき、あなたと私は赤の他人と言うようなただの集会ではなく、家族なのです。ですから、私たちはこの集りのことを単なる集会と区別して教会と呼ぶのです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家族というと、色々なイメージが広がります。まず、遠慮がないとか、支えあうとかまた、家族を構成する個々にも様々な思いがあります。それ故、考え方の違い、習慣の違いから衝突することもあります。これは、自然なことです。 わたしには、一人の妻がいます。二人はいません。(笑)とても仲が良いのですが、新婚当初、そうめんのだし汁のことで、喧嘩をしたことがあります。私の中でそうめんといえば冷たい麺を冷たいだし汁で食べる。なんと、心地良い祝福の瞬間でしょうか!しかし、妻が私に出したものは、暖かいだし汁でした。そんな、習慣を全く理解できない私は、激怒してしまいました。でも、後でよく考えてみると、夏冷たいものばかり食べて疲れた胃袋にはとても優しい健康に良いものではないのか? こんなふうに、些細な習慣の違いや相手の事を考える余裕がないとき、どんなに仲の良い家族でも衝突し、争うことがあります |
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この事は、相手を深く理解するという為には、とても良いことです。そういう意味で、教会内で時には争いなどあっても良いとも思っています。しかし、敵意を持ち続けるのであれば、これはよくありません。 私たちには、平和の基があります。そう私たちの主イエスキリストです。今日の御言葉の中にこうあります。「14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エペソ2:14-18) イエス様がわたしたちの真ん中に立って、私たちを結びつけ、敵意を滅ぼされるのです。 私たちの力では、どうにもできない、わかっていてもどうしても取ることのできない心の棘さえも取り除くことのできる、ダイナミックで強力なものなのです。 |
近年、日本でも離婚率が急上昇していますが、私の住んでいたドイツではずっと以前から離婚率が高かったそうです。プロテスタント発祥の地であるにもかかわらずです。古くから別たれる権利が叫ばれてきました。そんな、 信じましょう。私たちが神様の神殿であると言う事実を!! |
2015/06/28 礼拝の様子 | ||||||||||||||||||
齋藤篤(さいとう あつし)牧師 |
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聖書拝読 |
祈り |
特別賛美(ゴッドプレスユー |
特別賛美(感謝と喜びを) |
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9 あなたがたの中で、貧しいために見下されている人は、そのことを喜びなさい。主が高く評価してくださるからです。 10-11 また裕福な人は、主にとっては富が無に等しいことを知って、喜びなさい。裕福な人の一生は、美しく咲いては枯れる花のように、はかなく過ぎ去ってしまうからです。忙しく飛び回っていても、その働きの完成を見ないうちに死んでしまうのです。 12 誘惑に負けて悪に走らない人は幸いです。なぜなら、神を愛する人に約束されたいのちの冠を、ほうびとしていただけるからです。 13 悪に手を出しそうになった時、神から誘惑されたなどと言ってはなりません。神が悪を望まれるはずはありませんし、また、悪へ誘ったりするわけもないのです。 14 人は、自分の欲や悪い考えに引かれて誘惑されるのです。 15 その欲や悪い考えが悪へと駆り立て、ついには、神から永遠に引き離される死の刑罰へと追いやるのです。 16 ですから、だまされてはいけません。 17 すべての良いもの、完全なものは、光を造られた神から来るのです。神にはわずかの変化もくもりもなく、いつまでも輝いています。 18 神は御心のままに、真理のことばによって、私たちに新しいいのちを与えてくださいました。こうして私たちは、神の新しい家族の最初の子どもとされたのです。