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私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。   目標:福音を日常的に伝える。 祈りを呼吸のように行う。 聖書の御言葉を生活の中に生かす

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2015/08/2 主日礼拝 メッセージ:「消えない喜びはどこから

今日イエス・キリスト復活の記念の日に北九州希望の光キリスト教会初代牧師 原田昌樹先生をお招き致しました。消えない喜びはどこから来るのでしょうか? それは私達クリスチャンへ主によって、与えられた素晴らしい恵みです。原田昌樹牧師のメッセージを通して語られる「みことば」の一つ一つが私たちの霊的成長・信仰の糧となりますように! 私たちの心の耳と目をも開いてください。主イエスキリストの御名をもってお祈りいたします。アーメン
 聖書拝読

御ことば(ルカによる福音書10章20節) 
 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。

   祈り


メッセージ:「消えない喜びはどこから 原田昌樹牧師 

 特別賛美(感謝と喜びを)

 特別賛美(ゴッドブレスユー)

 (2015/7/5)今日イエス・キリスト復活の記念の日に北九州希望の光キリスト教会初代牧師 原田昌樹先生をお招き致しました。原田昌樹牧師のメッセージを通して語られる「みことば」の一つ一つが私たちの霊的成長・信仰の糧となりますように! 私たちの心の耳と目をも開いてください。主イエスキリストの御名をもってお祈りいたします。アーメン
 御ことば(ヨハネによる福音書10章17〜18節) 
   17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

  メッセージ:「イエスのしめされた愛」
 今日は、イエスの示された愛ということで、皆様とイエス様の心をご一緒にシェアしたいと思います。
 イエス様はクリスチャンでない人々の中には、十字架に掛けられ処刑され、弟子たちから見捨てられた大したことのない哀れな人物としか思っていない人もいます。しかし、神様のご計画を真に知ろうとするならば、イエス様の人生は十字架に向かって生きていたと言えます。イエスが自分の十字架の道を弟子たちに預言されたとき、ペテロは「そんなことは有ってはなりません」といってイエス様を諌めようとしますが、それに対してイエス様は、ペテロに「サタンよ!さがれ。お前は、神のことを思わず人のことを思っている。」と言いました。そうです、イエス様は私達の私のこの汚いドロドロした罪を背負って、十字架に向かってくださったのです。イエス様は、御父から出た愛、私達を握りしめ、だれも離さず抱きしめ、愛するという決意から出た十字架に向かって生きたのだと言えます。
   イエス様は今どこにおられますか? そうです、私たちのこの胸の中にいます。自分を悔い改め、どんなに自分を変えようと努力したとしても罪を拭い去ることは出来ません。神様と向き合い、自分の無力さ汚さをしり、そこをスタートとして、イエス様が全人類の罪を背負って十字架に向かい、復活されたという事実。ただ、このシンプルな福音を信じるということだけで、別に神学を学び、またギリシャ語やヘブライ語に通じ聖書を研究し尽くし、何か大変な苦行をする必要もなく、ただ、福音を信じることで、大祭司しか入ることの出来なかった至聖所に、そう私たちの心をその至聖所にしてくださったのです。  
 そのイエス・キリストの示された愛というのは、感情に左右されるようなものではありません。私たちは、ボールのように転がる感情に左右され、あの人は嫌いだとか、また、人だけでなくいろいろなものを裁きます。しかし、それは当然な心の動きです。神様が人を作られて久しいのですが、誰一人として同じ人間はいません。それは、あなたは、かけがえのない唯一無二の存在であり、あなたしか出来ないことがあるのだという神様からのメッセージでもあります。それは、その人を愛するという決意です。違う言い方をするとその人を理解すると言えます。しかし、私たちにそれが可能でしょうか? 極端な言い方をすると、私は生まれて以来一度も自分を理解出来たことがないのです。では、どうすればよいのか? 解ろうと努力し続けることです。そうすることを決意することです。イエス様の愛も、決意から来ています。

 イエス様の愛は、3つの部分に集約されます。神を愛しなさい。隣人を愛しなさい。自分を愛しなさい。
 「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」(マタイ22:37-39)
 わたしたちは、いままで自分を解って欲しいとばかり思っている人生でした。  
 しかし、キリストの愛にふれ、悔い改めるならば、“「この人を解ろう、解りたい」と、全くベクトルが反対に向きを変える人生を選択する”という決心をするということ、どんなに私たちが失敗し、言ってはならないこと、しては成らないことをしてしまっても、主は愛してくださいます。そんなふうに、人を愛するように変えられていくのです。今日、明日変わらずとも、いつか必ず変えられていきます。主は無理やり変えるのではなく、道を示し、そして忍耐強く私たちが変わるのを待っていて下さるのです。
   私たちが、神の愛を実践しようとする時、自分の愛のなさや自分のわがままな部分を見せつけられます。隣人に目を向けると、相手を理解できないこと、傷つき傷つけあうこと隣人に目を向けなければ味わうことの無かった挫折感や無力感にさいなまれます。
 しかし、主は言います。「あなたの敵を愛しなさい」と!

 私たちは、選択することができます。あの人は気が合うから隣人にしょう、あの人は全然自分の事を理解しようともしないし、気が合わないので隣人とするにはどうかなぁ?とか。
 イエス様は、「 43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:43-48)と言われます。選択の余地がありません。“どんな人でも愛する”決意を求めておられ ます。“完全でありなさい”とは、イエス様の霊を内に頂いているということを忘れないということです。
    わたしたちは、イエス様の霊を内に抱いているために隣人と向き合います。向き合った結果、私たちは、苦しみ、憎しみ、裏切り、心の中の葛藤が生まれます。心からの呻きや神様に対する愚痴が出て、そして祈りが生まれます。ヤコブのように神と格闘することとなります。その中で、こんな醜い、とんでもない自分でさえも愛してくださっていること、こんな者の為にイエス様は十字架に向かわれたと言う事実と愛とを知ることができます。
   私たちはその中で変えられて行きますが、何が私たちを変えてくれたのでしょうか?
  隣人を愛したことでしょうか? 神さまを愛したことでしょうか? 違います。隣人と向き合ったことで、傷つけられたこと、呪われたこと、迫害されたことが私たちを変えるのです。「3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)とあります。

 イエス様は、苦しみを受ける時飛び上がって喜べ、と言われました。神の愛を知り決意をもって隣人に向かうとき、傷つき、自分の汚さを知り、そんな自分が愛されていることを知り、再び向き合い続ける。イエス様は、私たちが、傷つけること、裏切ること、呪うことを想定して、なおかつ愛することを決意し、十字架に向かうことでしか私たちの罪を拭うことが出来ないことを知って、なおかつ私達を愛してくださった。そのイエス様にならうものと主が変えてくださるというこの事実を知りました。
 私達は、その苦難、迫害、呪いを受ける時、飛び上がって手を打ち鳴らして喜びましょう!!  感謝!!
 2015/7/5 礼拝の様子

メッセージ:「イエスのしめされた愛」    原田昌樹牧師
  
 
 
聖書拝読  
 
 
祈り
 
特別賛美(アメージンググレース)
 
 
 (2015/6/28)今日は、日本基督教団深沢教会主管牧師 齋藤(さいとう)篤(あつし)先生をお招き致しました。齋藤(さいとう)篤(あつし)牧師の メッセージを通して語られる「みことば」の一つ一つが私たちの霊的成長・信仰の糧となりますように!
 御ことば(エペソ人への手紙2章14〜22節) ◆キリストにおいて一つとなる
  14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。 19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
 メッセージ:私たちは神殿です。
  2015年4月に着任して、この企救エクレシアのホームページで皆さんに会えたこと感謝です。この教会の名前ですが、エクレシアという名前の教会は、この日本では多くないと思います。ギリシャ語の聖書原典にあるエクレシアという言葉は、日本語の聖書では、教会と訳されていることばです。けれども、エクレシアとはキリスト教の教会のみを示す言葉ではなく、呼び集められたものの意味であって、集会という意味の方が本来の意味に近いものです。しかし、私たちは、私たちの集会が単なる集会でないことを知っています。今日の御言葉のなかで、「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」(エペソ2:19)とあるように、私たちは、神の家族であるといえます。私たちは、呼び集められここに集ったとき、あなたと私は赤の他人と言うようなただの集会ではなく、家族なのです。ですから、私たちはこの集りのことを単なる集会と区別して教会と呼ぶのです。
   家族というと、色々なイメージが広がります。まず、遠慮がないとか、支えあうとかまた、家族を構成する個々にも様々な思いがあります。それ故、考え方の違い、習慣の違いから衝突することもあります。これは、自然なことです。
 
 わたしには、一人の妻がいます。二人はいません。(笑)とても仲が良いのですが、新婚当初、そうめんのだし汁のことで、喧嘩をしたことがあります。私の中でそうめんといえば冷たい麺を冷たいだし汁で食べる。なんと、心地良い祝福の瞬間でしょうか!しかし、妻が私に出したものは、暖かいだし汁でした。そんな、習慣を全く理解できない私は、激怒してしまいました。でも、後でよく考えてみると、夏冷たいものばかり食べて疲れた胃袋にはとても優しい健康に良いものではないのか? こんなふうに、些細な習慣の違いや相手の事を考える余裕がないとき、どんなに仲の良い家族でも衝突し、争うことがあります
 
  この事は、相手を深く理解するという為には、とても良いことです。そういう意味で、教会内で時には争いなどあっても良いとも思っています。しかし、敵意を持ち続けるのであれば、これはよくありません。

 私たちには、平和の基があります。そう私たちの主イエスキリストです。今日の御言葉の中にこうあります。「14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エペソ2:14-18)
 イエス様がわたしたちの真ん中に立って、私たちを結びつけ、敵意を滅ぼされるのです。 私たちの力では、どうにもできない、わかっていてもどうしても取ることのできない心の棘さえも取り除くことのできる、ダイナミックで強力なものなのです。
   

近年、日本でも離婚率が急上昇していますが、私の住んでいたドイツではずっと以前から離婚率が高かったそうです。プロテスタント発祥の地であるにもかかわらずです。古くから別たれる権利が叫ばれてきました。そんな、
権利を求めている私たちが、“主は、分かたれることを良しとしない”と、それを律法のように、嫌々、ヒーヒー言いながら、苦しい思いをしながら、守らなければならないのか? いいえ、そうではありません。そこには、主の私たちが一つになる喜びを知ると言う期待があるからです。イエス様は、きっと私たちが期待に応えてくれると信じ、笑顔で待っておいでです。その笑顔に応えようとするならば、真の家族となれるのです。その笑顔に応えようとするからこそ、平和に、一つになる道を労苦ではなく、そこに喜びをもって行うことができるのです。

さらに、「20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 」 (エペソ2:20-21)と続きます。私たちは、神殿=神様のお住まいであるといわれると、ひるんでしまうかもしれません。しかし、御言葉は、私たちのそんな小さな謙遜な思いを飛び越えて「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エペソ2:22)と続きます。私たちには、確かに限界があります。どんなに素晴らしい人でも自分の力で、平和に一つになる道を歩もうとしても、人間の力ではできない。しかし、聖霊さまが、自分をそう出来るように作り変えてくださる。そう信じることが出来る(アーメン!)からこそ、私たちは、主(神)の御住まいとされていくのです。 

 信じましょう。私たちが神様の神殿であると言う事実を!!

 2015/06/28 礼拝の様子

メッセージ:「私たちは神殿です。」
            齋藤篤(さいとう あつし)牧師  
   


日本キリスト教団深沢教会牧師。1976年福島県福島市生まれ。2006年よりキリスト教会の牧師の道へ。静岡からドイツに移り住んで、2015年4月より東京世田谷の地で、キリストの愛を伝え、分かち合う。
どんな日も「ハレルヤ!」と願い、感謝できることを目指したい牧師10年選手です。
食の世界に興味と情熱を傾ける、食いしん坊、いや、食いしん牧師です。
 (ブログ;日々是ハレルヤより )



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特別賛美(ゴッドプレスユー


特別賛美(感謝と喜びを)