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私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。   目標:福音を日常的に伝える。 祈りを呼吸のように行う。 聖書の御言葉を生活の中に生かす

TEL.093-964-2590 kikuecclesia@gmail.com

チャペルコンサート


齋藤篤(さいとう あつし)牧師  
   
  日本キリスト教団深沢教会牧師。1976年福島県福島市生まれ。2006年よりキリスト教会の牧師の道へ。静岡からドイツに移り住んで、2015年4月より東京世田谷の地で、キリストの愛を伝え、分かち合う。
 どんな日も「ハレルヤ!」と願い、感謝できることを目指したい牧師10年選手です。
 食の世界に興味と情熱を傾ける、食いしん坊、いや、食いしん牧師です。
 (ブログ;日々是ハレルヤより )
 御ことば(エペソ人への手紙2章14〜22節) ◆キリストにおいて一つとなる
  14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。 19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
 メッセージ:私たちは神殿です。
  2015年4月に着任して、この企救エクレシアのホームページで皆さんに会えたこと感謝です。この教会の名前ですが、エクレシアという名前の教会は、この日本では多くないと思います。ギリシャ語の聖書原典にあるエクレシアという言葉は、日本語の聖書では、教会と訳されていることばです。けれども、エクレシアとはキリスト教の教会のみを示す言葉ではなく、呼び集められたものの意味であって、集会という意味の方が本来の意味に近いものです。しかし、私たちは、私たちの集会が単なる集会でないことを知っています。今日の御言葉のなかで、「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」(エペソ2:19)とあるように、私たちは、神の家族であるといえます。私たちは、呼び集められここに集ったとき、あなたと私は赤の他人と言うようなただの集会ではなく、家族なのです。ですから、私たちはこの集りのことを単なる集会と区別して教会と呼ぶのです。
   家族というと、色々なイメージが広がります。まず、遠慮がないとか、支えあうとかまた、家族を構成する個々にも様々な思いがあります。それ故、考え方の違い、習慣の違いから衝突することもあります。これは、自然なことです。
 
 わたしには、一人の妻がいます。二人はいません。(笑)とても仲が良いのですが、新婚当初、そうめんのだし汁のことで、喧嘩をしたことがあります。私の中でそうめんといえば冷たい麺を冷たいだし汁で食べる。なんと、心地良い祝福の瞬間でしょうか!しかし、妻が私に出したものは、暖かいだし汁でした。そんな、習慣を全く理解できない私は、激怒してしまいました。でも、後でよく考えてみると、夏冷たいものばかり食べて疲れた胃袋にはとても優しい健康に良いものではないのか? こんなふうに、些細な習慣の違いや相手の事を考える余裕がないとき、どんなに仲の良い家族でも衝突し、争うことがあります
 
  この事は、相手を深く理解するという為には、とても良いことです。そういう意味で、教会内で時には争いなどあっても良いとも思っています。しかし、敵意を持ち続けるのであれば、これはよくありません。

 私たちには、平和の基があります。そう私たちの主イエスキリストです。今日の御言葉の中にこうあります。「14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エペソ2:14-18)
 イエス様がわたしたちの真ん中に立って、私たちを結びつけ、敵意を滅ぼされるのです。 私たちの力では、どうにもできない、わかっていてもどうしても取ることのできない心の棘さえも取り除くことのできる、ダイナミックで強力なものなのです。
   

近年、日本でも離婚率が急上昇していますが、私の住んでいたドイツではずっと以前から離婚率が高かったそうです。プロテスタント発祥の地であるにもかかわらずです。古くから別たれる権利が叫ばれてきました。そんな、
権利を求めている私たちが、“主は、分かたれることを良しとしない”と、それを律法のように、嫌々、ヒーヒー言いながら、苦しい思いをしながら、守らなければならないのか? いいえ、そうではありません。そこには、主の私たちが一つになる喜びを知ると言う期待があるからです。イエス様は、きっと私たちが期待に応えてくれると信じ、笑顔で待っておいでです。その笑顔に応えようとするならば、真の家族となれるのです。その笑顔に応えようとするからこそ、平和に、一つになる道を労苦ではなく、そこに喜びをもって行うことができるのです。

さらに、「20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 」 (エペソ2:20-21)と続きます。私たちは、神殿=神様のお住まいであるといわれると、ひるんでしまうかもしれません。しかし、御言葉は、私たちのそんな小さな謙遜な思いを飛び越えて「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エペソ2:22)と続きます。私たちには、確かに限界があります。どんなに素晴らしい人でも自分の力で、平和に一つになる道を歩もうとしても、人間の力ではできない。しかし、聖霊さまが、自分をそう出来るように作り変えてくださる。そう信じることが出来る(アーメン!)からこそ、私たちは、主(神)の御住まいとされていくのです。 

 信じましょう。私たちが神様の神殿であると言う事実を!!