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2024年10月27日:
「 私 た ち は 、 無 条 件 で 赦 す こ と の チ ャ レ ン ジ を 受 け て い る
( 悪 霊 に 対 す る 対 処 の 仕 方 ) 」
聖書⁚ペテロ第一の手紙5章7~8節(新改訳)
Messenger:進藤龍也牧師(YouTube)
■お知らせ■
2023年12月24日 クリスマスミサ 出演:Manna(Vo,P)・藤岡良樹(G)
SPECIALゲスト:ゴスペルシンガーManna
「第48回北九州市民クリスマス」!!
今年も降誕の日が間近になっています。イエス様はユダヤの町ベツレヘムでお生まれになりました。しかも神の御子でありながら、立派な場所ではなく、貧しい馬小屋だったのです。その当時ローマの皇帝により支配されていたすべての民族は自分の故郷に行って住民登録をしなければなりませんで、ヨセフは身重になっている婚約者であるマリヤをつれて自分の故郷に行ったが、泊まれる宿か場所がなかったので人の馬小屋で身をよせることになったところ、そこでイエス様がお生まれになったのです。
イエス様の御誕生には不思議さがあります。どうして万物の造り主である神様の御子が立派な所ではなく、そのような粗末な所で生まれたのかと言うことです。実はイエス様の御誕生の不思議さは、単なる宿屋がなかったからではなく、そこには深い意味があるからです。しかも馬小屋でお生まれになったイエス様は、動物の飼い葉桶に寝かされていました。
ある日イエス様はカベナウム町の会堂で集まっていた人たちに「御自分は天から下った命のパンであり、血は真の飲み物だから、自分を食べ、自分の血を飲む者は永遠の命を持つことになる」と教えられました。言わば、自分を食べ、自分を飲んで永遠の命を持ちなさいとのことです。その上、イエス様は、先祖たちは、荒野でマナを食べても死んだが、御自身が与えられる御自身の体と血は、永遠に生きる真のパンであり、真の飲み物であると教えられたのです。
イエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かされた意味とは、イエス様は私たちに与えられた真のパン、言わば食べ物としての意味であり、馬小屋とは、罪ある人間を表す表現で、イエス様はその罪人の中に来られ、罪人に命を与えられる象徴のために、そのような環境の中でお生まれになったのです。
ではイエス・キリストの肉を食べ、血を飲むとは、どういう意味でしょう。ヨハネ福音書1章1,2節に「初めに、言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」と書いてあります。言わば神様の御言葉は神様御自身の人格であり、力です。それで、すべては神様の御言葉によって成り立ち、神様は御言葉を通して、御自分を表してくださいました。
それで、人はイエス様の御言葉を通してイエス・キリストが分かり、その御言葉を通して人格的な交わりができ、また御言葉を通して命を得ることができたのです。なぜなら私たちにとって、御言葉は永遠に生きる命になるのだからです。それでイエス・キリストを食べ、その血を飲むとは、イエス・キリストの御言葉を私たちの中に受け入れとどまらせて、一体となるとのことです。イエス・キリストは御言葉「ロゴス」としておられますから、私たちはその中で永遠なる命を得ることが出来るのです。その意味を深く吟味し、感謝する降誕の日を迎えたいと思います。
人はさまざまなことにちなんで、幸せな人、幸いな人と表現します。つつがない平凡な生活を幸せとも言い、また何事もない普通の生活を幸せとも言います。具体的な概念がなくても心に平安が感じられればそれを幸いとも表現します。
ことわざに「終わりが良ければすべてが良し」との話があります。これはまた人の生きる人生においてもあてはまる言葉ではないかと思います。人がいくら幸せな人生を生きて来ても、その終わりが幸せでないとその人生は幸せだったとは言えません。逆に一生があんまり不幸せだったけれど、その終わりが幸せであればそれこそ、幸せな人生であったと思います。
しかしながら、多くの場合、人の終わりにはあんまり関心がなく、現在の幸せばかり考え、現生のことばかり思いながら生きているのです。
では人の終わりとは、何を意味しますか。聖書は「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」[ヘブル9:27]と書いてあります。言わば終わりとは、人の死を意味し、その後、誰でも神様に裁きを受けることになっているとのことです。言わばこの裁きを通して、神様に「正しい者」と言われた人、その人たちのみが得られる永遠なる救い、幸い、これを得た人が、真の幸いな人、幸せな人であるとのことです。
しかし、そうではない悪しき者と言われた人は、命に入ることができず、火の中で永遠に、歯ぎしりをする[マタイ福音13:42,50;22:13;24:51;25:30]苦しみを受けることになっており、人生においていくら幸せだったとしても、結局は不幸せに終わるとのことです。
詩篇一篇は、まことの幸せな人を表しています。この人はまず、消極的な意味として悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人と言い、積極的な意味として主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人と現わしています。すなわち、本当の幸せな人とは、肉の本能に従って、罪の感覚がない、世の調子に合わせ生きる者ではなく、神を恐れ愛し、その教えを喜びながらいつもその中で生きる人を言います。しばしの間、世においては、不幸せそうでも、幸せな終わりを信じて、主の教えを守り、その中で生きる人、この人こそ真の幸せな人であるとのことです。
イエス・キリストこそ、永遠なる命であり幸せです[ヨハネ福音14:6;コロサイ3:4]。主イエス・キリストは私たちの罪のために十字架の上で苦しみを受けられましたが、死人の中より蘇られて死に対して勝利をされました。誰でもキリストの中にあるならば、しばしの間、苦しみの中においてもなお勝利を信じる、この人こそ再び死や苦しみに飲み込まれない者として永遠なる幸いに生きることができるのです。
31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。 33 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 32 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
私にとって「あなたがたの中で、貧しいために見下されている人は、そのことを喜びなさい。主が高く評価してくださるからです。」という文言を受け入れるのは難しいことではありませんでした。けれども「富んでいる人は低くされることを喜びなさい。」というのは、長い間どういう意味なのかよくわかりませんでした。しかしある時、「世で高くされている、価値があるとされているものであっても儚く過ぎ去るものであること、この世のどんなに素晴らしいものを手にし、味わってもそんなものはちっぽけなものに過ぎないと思えるほどに、更に圧倒的な良きものが主にあって存在することを知ることができるということを喜べ」と語っているのだと思ったのです。
あなたは今、試練を受けていますか?それはどんな試練ですか?その試練はあなたのどのような部分を成長させてくれると思いますか?あなたはその試練の中で、どんな思いの戦いをしているでしょうか?
ある人がこんな話をしていました。この人には仕事上の上司がいます。この上司は志を持った良き人なのですが、しばしば本人が語るビジョンとチーム内における働き方や発言に混乱が生じるとのことでした。このような上司を持つ人はどのように行動したら良いのでしょうか。一時、この重圧が苦しくてこのチームで動くことに不満を抱いたそうです。また「思い知ればいい」などとも思ったそうです。しかしこの人はそれらの思いが自分の心や行動を、またやる気を縛り付けてしまうことに気づき、手放すことによって、その上司の元にいることは変わらずとも、自由を得ました。
[ガラテヤ人への手紙 6:1,2]にこう書いてあります。「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」そしてそのすぐ前の5:26には「自惚れて、互いに挑みあったり、妬みあったりしないようにしましょう」とあります。
私たちは、柔和な心で、謙遜な心で、愛をもって励まし支え合うことができるのだと聖書は語っているのではないでしょうか。「この人を導いてあげなくては」という思いからコントロールしようという誘惑に陥らないように注意する必要がある場合があるかも知れませんし、「それは間違っている!こちらが正しい!」と敵愾心や反発心、反抗心に囚われやすくなることに注意する必要があるかも知れません。これらの誘惑に打ち勝ち、主の御心である「愛」を選び従う時、私たちは「いのちの冠」を得るのだと書いてあります。
全ての律法は私たちが愛のうちを歩むための手引きなのではないでしょうか。これに従うことは愛の証明になり、愛が全うされていくのを目の当たりにすることができるのではないでしょうか。
忍耐の中には、手を替え品を替え、相手が受け取れる形がどんなものであるのか心を砕くことも含まれるのだと受け取ることができます。そのようにして私たちは練られ、強められていくのです。そんな私たちに約束されているのが「いのちの冠」なのです。これは草で編んだものでも、金属のようなものでもありません。この世のどんな素晴らしい素材もやがて朽ちてしまいますが、この冠は永遠に朽ちることなく輝く神からの栄誉であり、私たちが何者であるかを示すものであり、任命証であるのです。救いのカブトとも言えるでしょう。これは私たちを守ってくれますし、何をかしらに据えているのかを表すものでもあります。
いくつか聖書の言葉をご紹介します。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」[ヨハネの福音書 12:24,25,26]」
「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。[ローマ人への手紙 8:32]」
「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。[ヨハネの福音書 13:15]」
「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」[マルコの福音書 10:44,45]」
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
[エペソ人への手紙 2:10]
聖書に見られる「従う」や「仕える」というのは私たちが思い描く奴隷のように人格や人権を無視されるようなものではなく、私たちを私たち以上によく知る方が私たちそれぞれに用意してくれているかけがえのない輝きを放ち、また周りをも照らし、ぬくもりや平安、喜び、愛、力を日々受け取りながら歩んでいくものです。そんな新しいいのち、豊かないのちを生きてみたいと思いませんか? あなたはいのちの冠がほしいですか?喧騒から離れる時間を少しだけ用意して、心に問いかけてみてください。
もしほしいと思うなら、このように祈ってみてはいかがでしょうか。
「イエス様、私はいのちの冠がほしいです。もっともっとあなたが日々くださるという平安、喜び、愛、そのほかの様々な恵みを実感しながら毎日を生きていきたいです。そのために必要な力と知恵を与えてください。私はあなたについていきます。主イエス・キリストのお名前によって アーメン」
9 あなたがたの中で、貧しいために見下されている人は、そのことを喜びなさい。主が高く評価してくださるからです。 10-11 また裕福な人は、主にとっては富が無に等しいことを知って、喜びなさい。裕福な人の一生は、美しく咲いては枯れる花のように、はかなく過ぎ去ってしまうからです。忙しく飛び回っていても、その働きの完成を見ないうちに死んでしまうのです。 12 誘惑に負けて悪に走らない人は幸いです。なぜなら、神を愛する人に約束されたいのちの冠を、ほうびとしていただけるからです。 13 悪に手を出しそうになった時、神から誘惑されたなどと言ってはなりません。神が悪を望まれるはずはありませんし、また、悪へ誘ったりするわけもないのです。 14 人は、自分の欲や悪い考えに引かれて誘惑されるのです。 15 その欲や悪い考えが悪へと駆り立て、ついには、神から永遠に引き離される死の刑罰へと追いやるのです。 16 ですから、だまされてはいけません。 17 すべての良いもの、完全なものは、光を造られた神から来るのです。神にはわずかの変化もくもりもなく、いつまでも輝いています。 18 神は御心のままに、真理のことばによって、私たちに新しいいのちを与えてくださいました。こうして私たちは、神の新しい家族の最初の子どもとされたのです。
人が生きながら何を食べるか、飲もうか、また身のために何を着るかと考えるのは当然あることです。しかし、イエス様は、これらを切に求めるのは、異邦人求めることだから、やめなさいとおっしゃいました。多くの場合、クリスチャンは働いてはいけないと誤解されたこともありました。この場合、異邦人が切に求めているとは、自分の人生をただ食べ物や着る物に執着して打ち込むことを意味します。
また使徒パウロ自身も模範を示し、働きながら宣教に励んでいることも話しています[テサロニケⅠ2:9]。また、神様は万物を造られてから、人間に労働するよう命じられました[創世記1:28]。ただ、このような労働が肉のために執着すると、生きる目的や神に造られた人間の尊厳がなくなってしまうからです。
イエス様は、生きるための食べ物や飲み物、着る物のためには、その日その日労苦で十分だから、まず第一に、神の国と神の義を求めなさいとおっしゃいました。
神の国を求めるとは、この地上において神様が統治されることを意味します。これはイエス・キリストを通してその福音による成就を意味します。イエス・キリストは真の王の王、主の主であられ、御自分の民を国として治めておられています。今は目に見えない御国ではありますが、やがて主は来られ御自分の民を治められることを約束してくださいました。そのために、クリスチャンはこのような主の国の到来を求めなければなりません。
神の義とは、主の御心を意味します。神様は義なる御自分の御心を昔は預言者たちを通して現わされ、ついには、御子主イエス・キリストを通して確かなものとしてくださいました。イエス・キリストは義の本質であり、イエス・キリストの御言葉、行い、死と復活すべてが義であります[マタイ福音5:10/ヨハネ福音16:10/ヘブル7:2]。従って、義を求めなさいとは、イエス・キリストの御心がなされますよう求めなさいとのことです。
私たちの生きる目的と宗旨が御心にふさわしく生きるとき、主の御国はすべてのクリスチャンの霊の中で形作られていきます。そのとき主は王としてそこに御臨在され、これがやがてはイエス・キリストが統治される御国が実現され、これがイエス・キリストの再臨と共に完成されるのです。
31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。 33 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 32 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
FF バイブル・ファミリー・フェロシップ : 「ゴスペルアライヴ2023」!! |
Manami NiiZumi & Kids Ending きよしこの夜 |
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2020年3月7日特別賛美: 「輝く日を仰ぐとき」衛藤照子姉
素晴らしい
美声をお聞きください。
企救エクレシアのみんなも
一緒に賛美させていただき
ました。感謝です
特別賛美: 「スタンドバイミー」鈴木まさし with BB.Oh!Sun’s
忙しい中、主の為に賛美を捧げに来てくれました。
北九州市八幡東区中央町
ラーメンの名店「中央軒」
店主である鈴木まさし氏
歌うことが大好きで、また
毎日おいしいラーメンを
つくています。
2020年3月1日特別賛美: 「レイズミーアップ」
(図々しくも大宮香織さんの代役です。)
またまた天では大爆笑で喜んでると信じます。
KeyをいつもC→Dで
やっていいましたが、
A→Bでやっていました。
いつもと違うことをすると
より真剣に賛美できます?
2020年2月23日特別賛美: 「主はわが羊飼い」人間的には大失敗でした。!!
でも、天では大爆笑で喜んでくれてると信じます。
キースグリーンのオリジナル(←クリック)
BB.Oh!Sun'zの
怖いくらいな真剣な表情に
注目!!
こんなに真剣に賛美した事
あったかな?
2020年2月9日特別賛美: 「驚くばかりの」
BB.Oh!Sun'z
(安武幸男氏のニューアレンジで)
安武兄の
真剣な表情に
注目!!
2019年4月7日特別賛美: 「Amazing Grace」
BB.Oh!Sun'z+モモちゃん
(イースターカードのモデル羊のモモちゃんと共演)
モモちゃんの
メーメーと鳴く声が何故か
アーメン!に聞こえるのは
気のせいでしょうか?
「2018年1月28日特別賛美」
Elisha.jp
主の愛が今
「2017Easter Gospel Concert」by Manna
manna(Vo,Piano)
※ユーチューブへ。
1.♪ あなたに(アカペラ)
2.♪ メヌゥホト~そのままのあなたを
3.♪ Jesus loves me
4.♪ Gift
5.♪ あなたもそこにいたのか
6.♪ Victory is mine
7.♪ Because He Lives
8.♪ Amazing grace (アンコール)
manna(マナ)プロフィール
師家庭に生まれ、幼少期より讃美歌などの音楽に囲まれて育つ。 四歳時よりクラシックピアノ教育を受ける。 高校時にピアノに加え、声楽を学ぶ。幼い子どもから人生の先輩まであらゆる年齢層、様々な境遇の一人々が一つとなり賛美をするゴスペルを学び、歌い続けている
2017年10月29日
毎年恒例の教会リサイクルバザーを開催いたしました。多くの近隣の人に来て頂き感謝です。また、沢山の方に喜んで、頂いたことは主の恵みでした。主に感謝いたします。アーメン!!
「会堂建築10周年記念チャペルコンサート」
原田和代(Vo) 小櫻真実(P)
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31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。 33 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 32 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」