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私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。   目標:福音を日常的に伝える。 祈りを呼吸のように行う。 聖書の御言葉を生活の中に生かす

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イエス・キリスト企救エクレシア

ようこそ、 
 イエス・キリスト企救エクレシア
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ソーシャルディスタンスを保ちつつ集会を再開しております。

 

 

+2023年1月15日「あなたがた地の塩と世界の光です。」 (クリック,メッセージ要旨)   Messenger:朴(パク) 一濬(イルチュン) 牧師
   新しい年が始まりましてもはや半月となりました。この年も主の御恵みの中で始まりましたことを感謝します。このマタイ福音書5章はイエス様の山上垂訓と言います。特にここでは、イエス様に従う者の生き方を教えています。クリスチャンにとって、多くの御言葉を知るのは大変重要なことです。しかしそれにまして、御言葉を生活に生かして行うのはもっと大事なことです。  塩はその辛さをもって味をつけたり、腐敗するものを、その腐敗から守るために使います。それでもし、塩が塩けをなくすとは、命をなくすのと同じです。そして何も役に立たず、ただ外に捨てられてしまうだけで、道端で人びとに踏みつけられるだけなのです。主に従うクリスチャンは、地の塩のような存在です。それで、クリスチャンは希望のない世界に希望を与え、腐敗していく世の様々な所で、正しい道を示さなければなりません。もし、教会や信仰がこの世とともに腐敗していくものがあったならば、悔い改めなければなりません。そうしないと、捨てられてしまい、踏みつけられてしまうことになるのです。  光は山の上にある町のように、決して隠すことができません。そして、暗い所を照らすために良く見えるところに置きます。また光は生きるものに暖かさや命を与えます。クスチャンは、世の光です[エペソ5:8/ピリピ2:15]。良い行いをもって光を現わし、その温かさをもって世に命を与えなければなりません。  塩と光とは、自分を犠牲としなければその役目を果たすことはできません。塩は自分が環境に溶けてその痕跡がなくなるときその力が発揮されます。もし溶けてしまうのを惜しんだりすれば、何も役に立つことが出来なくなります。もちろん溶けてもその塩気をなくしてはいけません。本質は変わらず自分をなくしたとき塩としての役目が果たされるのです。    クリスチャンは光の本質ではありませんが、光の本質はイエス・キリストで[ヨハネ福音8:12;9:5;12:35,36,46]、クリスチャンがこのイエス・キリストの中に留まる時キリストの光となるのです。それて、このキリストの光が輝かせるために、自分を閉ざすのではなくオプンして、私たちの中におられるキリストを現わさなければなりません。主は今も世にある教会や御民を通して命の光と希望を現わしています。教会はイエス・キリストの光がいつも輝けるように良い行いを現わしていかなければなりません。

   
+マタイ福音書5章13〜16節←(クリックしてみ言葉を見る)

13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。 15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。 16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 



+2023年1月8日「私の歩く道々に奇跡が散りばめられている」 (クリック,メッセージ要旨)
  Messenger:新泉(にいいずみ) 真実(まなみ) Manna
 

どんな時にも日常の中に「良いこと」を見つけるのが得意な少女がいました。彼女は生まれた街を離れて叔母様と暮らすことになりました。生まれてすぐにお母さんが天に召され、大好きだったお父さんもまた、天国へと旅立ったからでした。叔母さまはある傷ついた出来事から心を閉し、あまり親切ではありませんが、身内の義務として少女を引き取ってくれました。教養のある人で、その町の婦人会のメンバーでした。ある時婦人会の当番が叔母さまの番になりましたが、代わりにこの少女が引き受けることになりました。町の中に病気で寝たきりの婦人の元へ食事を届ける役目です。この婦人は長期間にわたる不自由さから、心も頑なになってしまい、とても「偏屈」になってしまったことで、誰もがこの役目をイヤイヤ行っていました。この少女が初めて訪ねた時も、「あぁ嫌だ嫌だ。こんな子どもを寄越すなんて」とか「あぁ嫌な日だ。私は鶏肉が食べたかったのに牛の煮込みだなんて」などと言いました。少女は「あぁ良かった!」と言いました。婦人はは驚きました。そんなこと言う人はこれまでいなかったからです。「何が良かったんというんだい」と尋ねると「おばさんは鶏肉がお好きだって分かったわ!だからあぁ良かったって思ったの!」少女はたびたびこの婦人を訪ね、その度に「あぁ嫌だ」「なんて日だ」と言われましたが、少女はいつも「あぁ良かった!」と言って見つけた「良かった」を婦人に話して聞かせました。そのうち婦人は少しずつ心が明るくなり、暖かくなり「偏屈」から抜け出していき、体の症状も快方へと向かったようでした。少女の名前は「ポリアンナ」と言いました。彼女と全く同じようにとはいかなくとも、私たちの日常に散りばめられている「良いこと」を見つけ出すことができたらどんなに素敵でしょうか。ワクワクして来ませんか? 私たちが歩む道のりにどんな奇跡が隠されているのでしょう。目立つところにあるものもあるかもしれませんが、それを見つけるためには私たちはしっかりと目を覚ましている必要があります。そして探す必要があります。もし隠された宝物を発見できたなら、それは大いなる喜びとなるのではないでしょうか。 神は私たちに「大いなる良い計画」を用意してくれているのだと聖書は語ります。この新しい一年、大いに期待していこうではありませんか!そしてその約束を目の当たりに、その奇跡を見つけられたなら、その喜びを主に感謝し、大いに賛美し、分かち合おうではありませんか。最初のクリスマスの夜に羊飼いたちがしたように、私たちも世界中どこででも、この感謝と喜びを、また苦しみや悲しみの時にさえ寄り添い、奇跡をもたらしてくださるその奇(くす)しいユニークな神のわざを賛美しましょう! 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、 平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。(エレミヤ29:11-13)」

   
+詩篇96篇←(クリックしてみ言葉を見る)

1 世界中どこででも、主に新しい歌をささげましょう。 2 賛美の声を上げましょう。日ごと、だれかに、神の救いを人々に知らせましょう。 3 栄光に輝く主を世界中に伝え、神のお働きを話して聞かせましょう。 4 主は、ことばで言い表せないほど偉大で、大いにほめたたえられるべきお方です。他の神々に は目もくれず、このお方だけを礼拝しなさい。 5 他国の神々は、人が作った偶像にすぎません。しかし私たちの主は、天を造られたお方です。 6 栄誉と威光が神を包み、力と美が宮に立ちこめています。 7 世界の国々よ、主だけに栄光と力があることを認めなさい。 8 主にふさわしい栄誉をささげ、供え物を携えて来て礼拝しなさい。 9 きよい生活を守ることによって主を礼拝しなさい。全地は神の前で震えおののきなさい。 10 諸国民に、主の支配が行き渡ると告げなさい。神の権威はいつまでも落ちることなく、主はすべての国を公平にさばかれるのです。 11 天は喜び、地は小躍りしなさい。見渡す限りの海は、鳴りとどろいて神の栄光を伝えなさい。 12 青々とした野原を見て、ほめたたえなさい。草の一本一本が、主の偉大さを物語っているのです。森の木々も、こずえを鳴らして賛美しなさい。 13 主は世界をさばくために来てくださり、公平で真実なさばきを下されます。

 



+2023年1月1日「わたしを守る方」 (クリック,メッセージ要旨)

 Messenger:齋藤(さいとう) 篤(あつし) 牧師

 

齋藤篤牧師におよる素晴らしメッセージ!是非お楽しみください。

   
+創世記16章←(クリックしてみ言葉を見る)

1 アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。
2 サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」アブラムは、サライの願いを聞き入れた。
3 アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。
4 アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。
5 サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」
6 アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。
7 主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、
8 言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、
9 主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
10 主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
11 主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。
12 彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので/人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」
13 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。
14 そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。
15 ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。
16 ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

 



 

 


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FF バイブル・ファミリー・フェロシップ :

 「ゴスペルアライヴ2022」!!
ソーシャルディスタンスを保ちつつ盛況のうちに終了しました。
集まってくれた皆様に主の祝福がありますように!!アーメン!!




ゴスペルアライブ2022ハイライト




ゴスペルアライヴ2021ハイライト
 


ゴスペルアライヴ2020ハイライト

  

予告編(↓クリックして見る)

本 編(↓クリックして見る)

※ユーチューブへ。
オープニング〜
1. 生い立ち?孤独と自己否認?
2. ♪ だれか!! (R&M’s Voice)
3.出会い
4.♪ どげんもごげんもバイブルたい!
5.新しい自分?カットウ ?
6.♪ きみは愛されるため生まれた (ゴンミン)
7.復活?新しいミッション?
8.♪ 復活進行 (サルーキ=)
9.エピローグ?生まれてきてくれて、ありがとう!?

 

 

+2022年5月15日「あなたはわたしを愛しますか。」 (クリック,メッセージ要旨)   Messenger:朴(パク) 一濬(イルチュン) 牧師
 

イエス様が復活の後、弟子たちはこれからどうしたら良いのか、何をしたらいいのか分からず、それで、以前やっていた漁師に戻ることにし、テベリヤ湖畔にやって行きました。しかし、彼らは一晩中網を下ろしたが一匹の魚も取ることができませんでした。その時イエス様が現れ、網を舟の右側に下ろすことを命じられ、そのとおりにやったところ、沢山の魚が取れたので、やがて彼らの目が開き、命じられたのが自分たちの主であることに気がつきました。

復活されたイエス様は、三度目テベリヤ湖畔に現れ、漁に疲れていた弟子たちに食べ物を用意してくださり、弟子たちと共に食事をされてから、ヨハネの子シモンに三回も「あなたはわたしを愛しますか。」と聞かれました。

イエス様のこのようなご質問は、もしかすると三度もイエス様を否認したことがあって[ヨハネ福音18:17-27]、それによる心に重荷を持っていたペテロを立ち直せるためのものだったかも知れません。またこのイエス様のご質問は、他の弟子たちにも、今を生きる私たちに聞かれるご質問でもあると思います。

シモンに対する「あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか。」とのイエス様のご質問は、私たちが主イエス様をどのように愛しなければならないかを教えてくださる内容でもあります。

私たちは多くの「愛」の中で生きています。たとえば家族の愛、恋人の愛、友人の愛、民族の愛、クリスチャンにとっては何により神様の愛をよく理解しています。そんな中でイエス様の「この人たち以上にわたしを愛しますか。」と聞かれたのは、、私たちがイエス様を愛する時に、世のどの人よりも、世のどのようなものよりもそれ以上の愛を持って愛しなければならないかを教えられる御言葉です。

イエス様は、すべての神様の戒めの中で、第一が「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。」ことであって、神様に対する愛がすべてのものに勝ったものでなければならないとのことです。[マルコ福音12:33]。では、私たちが主を愛するとは具体的にどのようなものでしょうか。それは、イエス様の教えを守って従うことです[ヨハネ福音14:15,23,24;15:10]。

また、イエス様はペテロに あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。とおっしゃいました。それは、イエス様を愛するには犠牲が伴うことがあるとのことです。実際に歴史の中で、イエス。キリストを愛するがゆえにどれほどの犠牲が伴われたかがよくわかります。

 イエス様は、御自分を愛する者を決して忘れることはありません。主を愛する者を花嫁とされ、永遠なる御国に迎え入れ、永遠なる幸いをお与えになります[マタイ福音25:10]。

   
+ヨハネ福音書21章17,18節←(クリックしてみ言葉を見る)

17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

 



 

 

+2022年4月17日 イースター記念礼拝
「イエス・キリストの復活を信じる者になりなさい。」
(クリック,メッセージ要旨)
  Messenger:朴(パク) 一濬(イルチュン) 牧師
   

 イエス・キリストが十字架の上でお亡くなり、葬られた三日後、お墓を訪れたマクタラのマリヤ、他のマリヤとの女性たちはイエス様の復活を知り、その事実をお弟子たちに伝えました。その後、弟子たちが集まっていた時、復活されたイエス様がそこに現れました。しかし弟子の中トマスはそこにいなかったので彼は信じることができなかったです。

 トマスは自分の手など感覚を持って確認しないと信じることができないと言いました。その後トマスといっしょに弟子たちが集まっていた時、復活されたイエス様が現れ、トマスに自分の手を持ってイエス様の復活を確認し、信じない者にならないで、信じる者になりなさいと言われました。そのうえイエス様は、「見ずに信じるものは幸いである」ことをおっしゃいました。

 今も、クリスチャンではない世にある人たちは、イエス様の復活を信じていません。なぜならば、人たちは自分が経験しなかったことは信じることができないからですし、また復活とは常識に反することだから信じないとのことです。しかし、イエス様の復活は、真実であり、信仰をもってのみの確信することであるからです。

信仰とは人の感覚によりません。なぜならば、人の感覚とは非常に不完全なものだからです。また信仰は、知識や倫理、道徳や価値観などに基づきません。信仰とは神様の御言葉と御約束に基づいて、それを信じる信仰によるものだからです。

 イエス・キリストの復活は死に対する勝利の宣言です。神様は命の根本であり、神様は命の造り主になられて、決して死は命に打ち勝つことができません。イエス・キリストの復活は信じる者に対する命の約束です。それで誰であってもキリストにあるならば、死んでも生きるとの約束であり[ヨハネ福音書11:25]、それをイエス様御自身の復活を持って証明してくださいました。

 イエス・キリストの聖霊による御誕生、十字架のあがないの死、復活は福音の根本です。クリスチャンは、すでにキリストの中にある永遠なる命の中に生きている者であることを認識し、世にあってさまざまなことにあっても失望せず、ただイエス様の御約束を信頼しながら、この中を歩んで生きたいと思います。

   
+ヨハネによる2福音書0章26〜29節←(クリックしてみ言葉を見る)

26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。 27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」 29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」



+2021年8月15日「イエス・キリストにある絶えない幸い」 (クリック,メッセージ要旨)   Messenger:朴(パク) 一濬(イルチュン) 牧師
 

ある日 イエス様が弟子たちとユダヤからガリラヤへ行かれることになりサマリヤ地方を通らなければなりませんで した。それでサマリヤ地方のスカルと言う町に寄られた時、井戸のかたわらで、その町の不幸せな人生を過ごして来たある女性に会われました。その女性はイエス・キリストに会うことによって、今まで自分を苦しめていた過去の不幸せから抜け出され、喜びに満ち溢れる新しい人生を迎える祝福が与えられました。

1. 絶えない世の渇き。
幸いとか、幸せとは世の多くの人たちが求めているものです。たとえば「幸せになりたい。どうしたら幸せになるのだろうか」など、それで自分なりの幸せを求めて、美味しいものを食べながら幸せを感じたり、いい所を旅行しながら幸せを感じたりします。もしくは、娯楽や趣味に夢中して自分の生き甲斐のようなものを得ています。しかしながら、これらは一時的なもので、それらがなくなると、また求めるようになります。スカル町でイエス様に会った女性が 井戸の水を飲んでもまた渇きを覚えたように、心の渇きを満たすために、代る代る5人の男性を夫として暮らして来ても、心の渇きは満たされることはできませんでした。

2. イエス・キリストが与えられる幸い。
そこでイエス様は「この水を飲む者は、だれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くみとはありません。」とおっしゃったのです。なぜでしょうか。それはイエス様が与えられる水は「その人のうちで泉となり、永遠の命の水が湧き出る」からです。言わば、イエス様が与えられる水とは、外から毎回補うものではなく、むしろ、人の中から湧き出るもので、しかも絶えなく命への水として出るからです。

3. 命への水。
命への水とはイエス・キリストが与えられる聖霊です
[ヨハネ16:7]。しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
[ヨハネ7:37-39] だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。
[ヨハネ3:5,6] イエスは言われた。まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

聖霊は神の御霊としておられ、天地万物の働きから、キリストの十字架による救いの御わざを実現してくださる方です。それで、誰でも心の扉を開いて、イエス・キリストを受け入れるのなら[黙示録3:20]、聖霊様が共におられ、その人を闇から光へと、絶望から希望へと、悲しみから喜びへと、滅びから救いへと、死から復活へと、またイエス・キリストの十字架の血潮により、地獄から天国へと、導いてくださいます。
[ヨハネ6:35] イエスは言われた。わたしが命のパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
誰でも、イエス。キリストを心の中に受け入れるのなら、聖霊様がその人の中で働かれて、渇き切った暗い運命から解放され、私たちが一人になって世を去る時も、イエス・キリストは共におられ、永遠の命へと導いてくださいます。


   
+ヨハネ福音書4章13〜14節節←(クリックしてみ言葉を見る)

13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 



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         梅光学院中学校高等学校ハンドベル部&合唱部

 

 Manami NiiZumi
   & Kids 

   Ending  きよしこの夜
 





+ 2020年3月22日 主日合同礼拝:「決定的な出会い」 (クリック,メッセージ要旨)
 人生における「出会い」ほど不思議なものはありません。私たちは、誰かに出会ったことによって自分の人生が決定される、といっても決して過言ではないと思います。もしあの時、あの人に出会わなかったら、決して現在の自分はあり得ない、そのような人との「出会い」の経験は誰しももっていることでしょう。
さて、本日お読みした聖書の個所に、イエス様とシモン・ペテロの「出会い」が描かれています。イエス様がゲネサレト湖(ガリラヤ湖)の湖畔に立っておられると、「群衆が神のことばを聞こうとして」イエス様のところに押し寄せてきました。ガリラヤの漁師シモンにとっては、明けても暮れても魚をとることだけで、神の存在はどうでもよいことであったと思います。しかし、その日は違いました。夜通し苦労し漁をしましたが何もとれませんでした。漁師が魚をとれないということは生活の糧を得られないということです。がっかりとして、疲れ果てていたことと思います。そんな彼のところに、イエス様は近づき、声をかけられました。シモンは「お言葉ですから網をおろしてみましょう。」と答えました。そうしたところ、おびただしい魚がかかり、網がやぶれそうになりました。「出会い」とはここにあります。シモンのこの態度に学ぶ必要があります。もし、シモンが、「俺は漁のプロだ、素人が何を言ってやがる。」という態度であったならば、イエス様との出会いは成り立ちませんでした。「お言葉ですから網をおろしてみましょう。」とイエス様の呼び掛けに対し、謙虚に従い、応答したところにあります。イエス様の「call」にシモンが「response」しました。出会いとは、「call and response」で成り立ちます。つまり、一方通行ではなく、双方向の人格的交わりの中に「出会い」は成り立つことを私たちは学ぶことができます。
「福音」はパラドックスです。がっかりした時、つらい状況にある時実は、最大のチャンスであることを教えてくれます。もし今、立ち直れないようなおつらい状況にある方がいらっしゃるならば、だからこそイエス様の呼び掛けに耳を傾け、その呼び掛けに、聴き従いましょう。聴き従う時、私達は再び立ち上がることが導かれます。なぜならば主イエス様はよみがえられたからです。
   Messenger:小川厚史氏(日本基督教団 深沢教会執事)
+ルカによる福音書5章1〜11節←(クリックしてみ言葉を見る)
◆漁師を弟子にする

1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 



2020年3月7日特別賛美: 「輝く日を仰ぐとき」衛藤照子姉
     


素晴らしい
美声をお聞きください。
企救エクレシアのみんなも
一緒に賛美させていただき
ました。感謝です

特別賛美: 「スタンドバイミー」鈴木まさし with BB.Oh!Sun’s


忙しい中、主の為に賛美を捧げに来てくれました。

北九州市八幡東区中央町
ラーメンの名店「中央軒」
店主である鈴木まさし氏
歌うことが大好きで、また
毎日おいしいラーメンを
つくています。

 

 

2020年3月1日特別賛美: 「レイズミーアップ」
     (図々しくも大宮香織さんの代役です。)


またまた天では大爆笑で喜んでると信じます。


KeyをいつもC→Dで
やっていいましたが、
A→Bでやっていました。
いつもと違うことをすると
より真剣に賛美できます?

 

 

 

 

 

2020年2月23日特別賛美: 「主はわが羊飼い」人間的には大失敗でした。!!


でも、天では大爆笑で喜んでくれてると信じます。
キースグリーンのオリジナル(←クリック)

BB.Oh!Sun'zの
怖いくらいな真剣な表情に
注目!!
こんなに真剣に賛美した事
あったかな?

 

 

 

 

 

2020年2月9日特別賛美: 「驚くばかりの」


BB.Oh!Sun'z
(安武幸男氏のニューアレンジで)

安武兄の

真剣な表情に

注目!!

 

 

 

 

 


+ 2020年1月16日 特別賛美「明日への恵み」朗読賛美 (クリック、メッセンジャー紹介)
 当協会の週報に連載されている秋津島夫さんの短編集「明日への恵み」の朗読
     
2019年12月22日 クリスマス・Gospelコンサート第二部
 
+ 2019年12月22日 クリスマス記念礼拝:「すべての民に与えられる喜び」 (クリック、メッセンジャー紹介)
 本日は、日本基督教団深沢教会より田代先生をお招きしみ言葉をとりついでいただきました。この素晴らしいメッセージをどうぞお聞きください。
   
+ルカによる福音書2章8節〜20節←(クリックしてみ言葉を見る)

8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。 9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。 10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。 12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。 13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、 14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。 15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。 16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。 17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。 18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。 19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。 20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。

 



+ 2019年4月21日 イースター記念礼拝:「新しい人生」 (クリック、メッセンジャー紹介)
 本日は、日本基督教団深沢教会より田代先生をお招きしみ言葉をとりついでいただきました。この素晴らしいメッセージをどうぞお聞きください。
   
+コリント人への手紙U5章17〜18節←(クリックしてみ言葉を見る)

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 18  しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。

 



2019年4月7日特別賛美: 「Amazing Grace」


BB.Oh!Sun'z+モモちゃん
(イースターカードのモデル羊のモモちゃんと共演)

モモちゃんの

メーメーと鳴く声が何故か

アーメン!に聞こえるのは

気のせいでしょうか?

 

 

 

 

+ 2019年3月24日 特別伝道礼拝:「石の心、肉の心」←(クリック、要旨を見る)
 企救エクレシアに遣わされて3年、本日が最後のメッセージとなりますが、本当に「アッ」という間の楽しい3年間でした。これも企救の皆さんのお祈りとお支えがあったからだと、改めて感謝の思いでいっぱいです。本日は、私自身が現在取り組み知らされていますことを、与えられた御言葉から語らせていただきます。  本日の説教題である「石の心、肉の心」は、旧約聖書のエゼキエル書に記されている言葉です。「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から石の心を除いて、肉の心を与える」(36章26節)と書かれていますように、「石の心」とは冷たく頑なな心であり、「肉の心」は血の通った温かく柔和な心です。  私自身をこの御言葉に照らしてみる時、私自身が石の心の持ち主だということを知らされます。何もない時は柔和な心の持ち主のようにしていても、いったん自分に不都合なことが起こったり、自分に責任が問われるようなことが起こると、途端に石の心になって、反射的ともいえるほどに自己弁解したり、責任転嫁したりしてしまうのが、私の偽らざる実体だということです。パウロはそのような自分のことを「わたしは罪人のかしらです」と告白しています。 しかし多くの人は、自分は石の心など持っていないと思っています。ヤコブは、そのような人々に対して、本日の聖書の箇所で次のように言っています。「心に植え付けられている御言葉を素直に受け入れなさい。御言葉にはあなたがたの魂を救う力がある。そして御言葉を行う人になりなさい。おのれをあざむいて、ただ聞くだけの者となってはいけない」(1章21、22節)と。私たちは聖書の御言葉を素直に受け入れて、それを徹底的に行ってみる時、自分自身がいかに罪深い者であるかということを知らされます。 イエス様は、ご自分がこの世に来た目的を次のように言われました。「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9章13節)と。イエス様は、すぐに自己弁解したり、責任転嫁してしまうような石の心の持ち主である罪深い者ために、この世に来たと言われているのです。 私は長年、学校の教師として教える立場に立ち、また教会でも指導的立場に立ってきました。その中でいつも問われていますことは、同じヤコブの手紙3章に記されています御言葉です。「あなたがたのうちの多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が他の人たちよりも、もっと厳しいさばきを受けるからである」(3章1節)という言葉です。私はこの御言葉を思い起こすたびに、人を教え導く前に、まず私自身が御言葉の前に謙遜に立ち、その御言葉を素直に受け入れ、聴き従っているかを問われます。すべてが、まず私からなのだと・・。 企救エクレシアの皆さんも、おひとりおひとりに与えられた御言葉を素直に受け入れ、その御言葉に聴き従っていってください。そのことによって、本日の聖書の箇所の最後に「こういう人は、その行いによって祝福される(新共同訳では、幸せになります)」(25節)と記されていますように、多くの祝福が与えられ、幸せになられることを確信しています。
   
+ヤコブの手紙1章19〜25節←(クリックしてみ言葉を見る)

19 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。 20  人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。 21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。 22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。 23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。 24  彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。 25  これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

 



+ 2019年2月24日 メモリアル記念礼拝:「いのち」←(クリックして要旨を見る)
父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました 干し柿、もちも美味しゅうございました 敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました ・ ・ 父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません 何卒、お許し下さい 気が安まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません 幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました 上記の文は、前回の東京オリンピックのマラソン競技で国立競技場に唯一、日の丸を掲げた円谷幸吉選手の遺書です。27歳の若さでの死でした。当時、同じ長距離ランナーであった私は、この出来事に大きな衝撃を受けました。私は、その時このことを通して「いのち」の意味について、深く考えさせられたことを思い出します。 聖書では、この「いのち」について「プシュケー」(肉体上の眼に見える命)と「ゾーエー」(肉体を超えた本質的な命)について記しています。私たちの肉体的な命は、どんな人であってもやがて朽ち果ててなくなってしまいます。私たちは誰もが死を前にした時、言い知れない恐怖感を抱き無力になります。私たちは一生涯死の奴隷となっていると言っても過言ではないのです。 イエス様がこの地に来てくださった最も大きな目的は、この死の奴隷となっている私たちを解放するためでした。約2000ページに及ぶ聖書の中で、最も中心的な箇所とされるのが、ヨハネによる福音書3章16節の御言葉「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」です。イエス様は十字架にかかって、肉体の命(プシュケー)を終えられ、三日目によみがえって死に勝利され、私たちに永遠の命(ゾーエ―)に入る道を開き、死の奴隷とされている状態から私たちを解放して下さいました。イエス様は、十字架の死と復活を通して、私たちに「もうひとつのいのち」ゾーエ―(永遠の命)があることを示して下さったのです。 本日は召天者メモリアル礼拝です。先に天に召された、愛する兄弟姉妹を覚えて、その生きざまを思い起こし、私たちもそのみ跡を継ぐ思いを新たにする時です。「人は、たとえ全世界を手に入れても、まことのいのちを失ったら、何の得がありましょう」(16:26)と、本日の聖書の箇所に記されていましたように、私たちがこの地でどんなに地位や名声や富を得たとしても、まことのいのちである「永遠の命」を失ってしまったとしたら、私たちの人生はむなしく空虚なものとなってしまうのです。私たちもイエス様を信じる思いを新たにし、先に天に召された兄姉のあとに続く者となりましょう。
   
+マタイによる福音書16章21〜28節←(クリックしてみ言葉を見る)

21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。 23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。 26  たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。 27  人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。 28  よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

 



+ 2018年1月28日特別伝道礼拝:「雄々しくあれ」←(クリックして要旨を見る)
   

今日、企救エクレシア週報の表紙の写真スペイン、バルセロナ「サクラダファミリア大聖堂」を見てびっくりしました。実は羽田空港に向かうタクシーの中で運転手さんとサクラダファミリアの事を話していたからです。 サクラダファミリアの意味は、神の家族「イエス様、その父ヨセフ、母マリア」を示す言葉でありそれは、神の家族であるクリスチャンを象徴しているのだと思います。さて私は2012〜2015年の間、ドイツのケルンという町で日本語教会の牧師をしていました。その貴重で宝ともいえる出来事を皆さんと分かちあいたいと思います。

 その前にドイツの教会のシステムについて少しお話したいと思います。日本の教会は献金や寄付によって経済的なものを補っていますが、ドイツでは、国が教会の為の税金を国民から徴収しそれを各教会に割り当てています。つまり、経済的には国が教会を運営しているともいえます。
しかし、近年、教会税の集まりが悪くなり、日本語教会の援助が打ち切られてしまいました。それも、私が赴任する年にです。グッド(バット)なタイミングです。(笑)

 私は、そのことを承知で「何とかなるさ〜」くらいの感覚でドイツに赴いたのですが、当のケルンの教会員たちはそうではなかったようで、これからの教会運営について大きな不安をもっていて、教会員の心をバラバラに引き裂いていました。そのうえ冬のドイツは薄暗く太陽の出ない日が続き、また私を追い出そうとする様々な働きを受け、さすがの食いしん坊な私も食事も喉を通らない日々が続き、ついには鬱(うつ)になってしまいました。

そんな時に、スペインのバルセロナの教会での奉仕の仕事の依頼が来ました。この時、私は体調不良を理由に断りました。しかし、その教会のお世話役の女性が、「先生!そんな時だからこそ、是非バルセロナに来てください。きっと元気になりますから。」と言って、しきりに勧められるので、その奉仕を引き受けることにしました。そして距離にして1200Km、飛行機で2時間かけて空港に降りた瞬間、その理由を知りました。太陽はサンサンと輝き、どこまでも続く青空、薄暗いケルンの空とは大違いです。バルセロナの教会の兄弟姉妹との交わりや奉仕のなかで、大事な何かを主は与えてくださいました。私は、それまで自分で何かをしようとジタバタしていました。自分で何かをすることを主が支えて下さることは確かです。しかし、「本当に苦しい時、人や被造物の力ではどうしようもない時に、解決できるのは主のみである」ということです。それからひと月、余計なすべての動きをやめて、主におまかせしてひたすら祈りました。すぐには解決しては頂けませんでしたが、主は一歩一歩、私自身とケルンの兄弟姉妹たち一人ひとりに働いて下さり、教会を一つの家族として下さいました。主は、必要な時に必要なものを必要な分だけ、確実に与えて下さいました。決して多過ぎず、不足なく丁度よく、ケルンの教会にその恵みを与えて下さったのです。ハレルヤ!!

今日の御言葉の締めくくりの部分を、共にわかちあいましょう。
待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(詩篇27:14)  主は、「何をクヨクヨしている。今すぐ元気になれ(怒)!」というような御方ではありません。最高のタイミングで必要(私たちが気づかないでいる必要まで)を満たして下さるのです。私たちは、どんなに健康で力強く見える時でも自分の力で雄々しくなることも、心を強くすることもできません。
ただ、主のみがそれを可能とされるのです。アーメン!!  

 
+詩篇27篇←(クリックしてみ言葉を見る)

【ダビデの詩。】1 主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。 2 さいなむ者が迫り/わたしの肉を食い尽くそうとするが/わたしを苦しめるその敵こそ、かえって/よろめき倒れるであろう。 3 彼らがわたしに対して陣を敷いても/わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても/わたしには確信がある。4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。 5 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ/幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ 6 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ/主に向かって賛美の歌をうたう。 7 主よ、呼び求めるわたしの声を聞き/憐れんで、わたしに答えてください。 8 心よ、主はお前に言われる/「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。 9 御顔を隠すことなく、怒ることなく/あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください/見捨てないでください。 10 父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。11 主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。 12 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者が/わたしに逆らって立ちました。 13 わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。 14 主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。

 


「2018年1月28日特別賛美」


Elisha.jp

主の愛が今

 

 

 

 

 

「2017Easter Gospel Concert」by Manna

 

manna(マナ)プロフィール
 師家庭に生まれ、幼少期より讃美歌などの音楽に囲まれて育つ。 四歳時よりクラシックピアノ教育を受ける。 高校時にピアノに加え、声楽を学ぶ。幼い子どもから人生の先輩まであらゆる年齢層、様々な境遇の一人々が一つとなり賛美をするゴスペルを学び、歌い続けている

 

 

 

 

NEWSお知らせ

2017年10月29日
毎年恒例の教会リサイクルバザーを開催いたしました。多くの近隣の人に来て頂き感謝です。また、沢山の方に喜んで、頂いたことは主の恵みでした。主に感謝いたします。アーメン!!

    


「会堂建築10周年記念チャペルコンサート」


原田和代(Vo)  小櫻真実(P)

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